不登校新聞

552号 2021/4/15

不登校から東大、リクルートへ ありがたかった母の対応

2022年05月29日 13:59 by kito-shin
2022年05月29日 13:59 by kito-shin




 4月17日(土)午後7時56分から日本テレビ系列で放送される「世界一受けたい授業」)の『無理やり「学校に行け」はもう古い!「不登校」という生き方』にて、不登校から東大へ進学した不登校経験者の森崎晃さんが紹介されます。森崎晃さんは不登校から東大へ進学。現職の株式会社リクルートにて、不登校の子どもが通う名古屋市の適応指導教室などで、タブレットを使ってオンライン学習ができる教材「スタディサプリ」を用いた学習支援事業のプロデューサーをされています。『不登校新聞』503号(2019年4月1日号)にて掲載した森崎晃さんのインタビューを再掲します。

* * *

 「幼稚園へ行きたくない」という感情が出たのは、年中のころだったと思います。ある日のこと、僕は園内で転んでコンクリートに打ちつけ、前歯2本を折る大けがをしました。

 幼かったので転んだことを誰かのせいにしたような気もしますが、ずっと泣き叫んでいた記憶は、今もはっきりあります。

 救急車を待つあいだ、担任とはちがう強面の女性の主任教諭がやってきて、血をだらだらと流しがら泣きわめく僕を立たせると、迫力満点の形相でこう言いました。

 「男なら泣くな!」。

 「転んだことも、歯を折ったこともおまえが悪いんだろ!」。

 今思えば、園児に治療を要するけがをさせてしまい、先生も気が動転していたのかもしれません。

 責任の所在を明らかにすることで園を守ろうとしたのか、あるいは男としての強さやガマンの精神を学ばせたかったのか。その真意はわかりません。

 抜歯などの治療を終え、翌週には幼稚園に復帰したものの、その先生を見ると胸が苦しくなる自分がいました。

 そのとき頭をよぎったのが、「幼稚園に行きたくない」という感情です。

 抜歯をすると熱が出ることもあるので、それからはちょっと体調が悪いと言っては、幼稚園を休むようになりました。

 母はすぐに仮病を見抜き、これは登園拒否だなと気づいたようです。

登園拒否肯定した両親

 幸いなことに、母は子どもとの対話を惜しまず、登園拒否についても肯定してくれました。夫婦間でどのような会話があったかはわかりませんが、父もそれを受けいれたようです。

 幼稚園の年度替わりのころ、あれはたぶん三者面談のときだったと思います。主任教諭の先生が母に「今の時代、幼稚園に通うことができないなんて、将来ろくな大人になりませんよ」と叱りつけていたことを覚えています。

 その言葉を受けて、母が「けっこうです」と答えてくれたことは、僕にとって非常にありがたいことでした。

 面談中は先生の話に真摯に耳を傾けるという体裁を保っていた母ですが、帰り道で僕に向かって「いやな先生だね」と笑って言ってくれたとき、母と小さな悪事を共有したようで、一気に救われた気持ちになりました。

 心のどこかには、幼稚園へ行っていないという負い目はあったものの、以来、すんなりと登園拒否ライフへ。

 幼稚園に行く・行かないで親子のバトルがなかったぶん、ふり返ると恵まれた環境で自宅生活を送っていました。

 僕の記憶にはありませんが、写真が残っているので、小学校の入学式には行ったようです。覚えていることといえば、入学したての4月に国語のテストを受けたこと。

 そのテストの設問は、「虫食いになった50音表の空欄を埋めなさい」というものだったのですが、幼稚園に行っていない僕はまったく解くことができず、そもそもテストという概念すら知りません。無邪気に隣の子の回答を見てそのまま書き写したら、先生にひどく叱られました。

 僕としては叱られたことよりもみんなができることのほうがショックで、かつビックリしました。「え? 何? みんなどうした?」という気分です。

 聞くところによると、当時、住んでいた地域は教育に関心の高い保護者が多く、小学校入学前に足し算はもちろん、引き算くらいまでマスターしている同級生がたくさんいたようです。

 僕の幼稚園は足し算の勉強をするような方針ではなかったので、あのまま幼稚園に通っていても、おそらく足し算は習っていなかったでしょう。

 親もその前提で考えていたので、幼稚園に行かないぶん、家で勉強させようという意識もなく、小学校ではまず最初に勉強でつまずきました。

 小学校1年生の記憶としては、担任の先生と三者面談をしたときのこともおぼえています。

 僕は教室のすみのほうで遊んでいたのですが、母が先生から厳しい口調で「お母さん、もうちょっとしっかりしてください」と言われているのが聞こえ、子ども心に「これは申し訳ない」と思いました。

 大人は子どもに聞こえていないと思うようですが、当時の僕は地獄耳でした(笑)。その後はほとんど学校の記憶はないので、おそらく学校には行っていないと思います。

自分のペースで学び始めると

 勉強の遅れを心配した両親が、僕を公文式の教室に通わせるようになったのは、たしか小学校2年生のときでした。

 自分の学年よりもどんどん先に進んで、プラスとマイナスの計算を勉強している同級生もいるなか、僕は自学年の勉強よりもさかのぼって取り組んでいました。

 それでも学ぶ速度は遅かったのですが、できなくてもいい。できなかったらできなかったで、来週また同じ課題に取り組めばいい。その学び方は、当時の僕に合っていたのだと思います。

 自分のペースで学べることや、できないなりに丸がついたり、少しずつでも先に進んでいく感覚は非常にうれしいものでした。

 「晃くんは、このまま地元の中学校に進むよりも、私立の中学校に進んで、自由にすごしたほうがいいと思います」。

 両親は高学歴ではなく、ましてやそれまで中学受験など考えてもいませんでしたが、公文式の先生がそう言ってくれたことをきっかけに、小学校3年生の秋、母方の祖母の家がある名古屋市へ引っ越すことになりました。

ありがたかった環境の変化

 親からは「中学受験と、祖母の面倒を見るための引っ越しだ」と聞いていましたが、のちに通った私立の中学校は家から片道1時間かかります。

 祖母は叔父夫婦と暮らしていて、80代になった今も健康で元気です。母の手助けは不要でした。

 親の真意は、学校に通えていない僕のために環境を変えることにあったのでしょう。僕はそう理解しており、そのときの親の決断には今も感謝しています。

 転校先の学校の登校初日は運動会の日でした。職員室に行くと、担任の先生と体操服姿の学級委員長が待っていて、僕の手を引いて教室まで連れて行ってくれました。

 思えば、前の学校でなじんでいないことを踏まえての配慮だったのかもしれません。おかげで僕は初日から意外なほどすんなりとクラスに溶け込むことができたのです。

 運動会は競技を見ている時間が長いので、クラスメイトとうまく会話ができなくても、ごまかせたのも大きかったと思います。 

 奇跡とも言えるなめらかなスタートを切った僕は、公文式での勉強が功を奏し、転校先の学校で勉強ができる部類に入るというおまけまでつきました。

 クラスメイトに「今度の転入生は頭がいい」「勉強を教えて!」と言われるようになると、いつしか教室に自分の居場所ができました。

 視野が狭かったこともあるかもしれませんが、当時は勉強することが生き残る道だったのでしょう。その居場所を守りたいがために、さらに勉強しました。

 その後は、ちょっと気分が合わない日に月1回程度、休むことがあったものの、基本的には学校に通っていました。

 そして、受験を経て、中高一貫の進学校へ進学。東京大学に現役で合格し、卒業後は銀行、インターネット企業を経て、リクルートに入社。

 現在は、不登校の子どもが通う名古屋市の適応指導教室などで、タブレットを使ってオンライン学習ができる教材「スタディサプリ」を用いた学習支援事業のプロデューサーをしています。

自分の経験を役立てたい

 このタブレット教材「スタディサプリ」は、まわりに知られずに、自分がわかるところから勉強を始められる利点があります。

 わかりやすく説明された授業動画もあり、中学校3年生が小学校高学年のつるかめ算的なところから学ぶこともあれば、アルファベットのABCから始める子もいます。

 僕自身の経験からも、不登校直後に自分と向き合うのはつらいことで、さかのぼって勉強しようという気にはなれませんでした。

 けれども、なんらかのきっかけでエネルギーがたまり、学習に向き合えるフェーズになったとき、自分のペースで勉強でき、授業動画で過去にさかのぼって学習することができる教材は、不登校の子の心強い味方になり得ると考えています。

 もちろん、事業として学習支援に取り組むことの難しさも感じています。大きく利益を上げられる領域でもありませんが、持続可能な支援ができるよう、ロマンとソロバンをどう成り立たせていくかを考えるのも、僕の重要な仕事だと思っています。

 学習支援の目的は、学校へ行きたいけれど、行くことができず勉強をしていない、その負い目をやわらげることです。短期的な学力向上ではありません。

 ただ学習と向き合うことで、わからないことがわかるようになる喜びを知ることもできます。さらには自己肯定感を高めるきっかけのひとつにもなります。それは僕自身の経験からも言えることでした。

 内向的で学校の休み時間には自分の席で鉛筆を削るか、文庫本に目を落としていた自分と今の自分は、本質的には何も変わっていません。

 けれども、奇跡の一つひとつが結びつき、結果として不登校の子どもたちと関わる仕事ができる今、こんなに幸せなことはないと思っています。(聞き手・小山まゆみ)

森崎晃(もりさき・あきら)
1986年名古屋市生まれ。不登園、不登校を経て、東京大学入学。卒業後、銀行、インターネット企業を経て、リクルートに入社。現在はタブレット教材「スタディサプリ」を用いた学習支援事業に携わっている。

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