敗戦から今年で65年目。その爪跡とも言える普天間基地移設問題が再燃した。私たちはいま、何を考えるべきだろうか。沖縄子ども研究会の野本三吉さんに執筆いただいた。
基地のなかにある沖縄
6月23日は、沖縄の全県民が喪に服し、学校や公官庁をはじめすべての仕事を休み、65年前の沖縄戦で亡くなった方々を追悼する日である。沖縄戦で亡くなった方々は20万656人。全島民の4人に1人が犠牲者になったと言われるほどに激しい「鉄の暴風雨」であった。
今年の6月23日の一日前、ぼくは突然の耳の異変に気づいた。周囲の音、会話が聴こえなくなったのである。知人の医師に相談し、紹介をしてもらって総合病院で精密検査をしてもらった。診断では「突発性難聴」、即入院するように言われた。大学での業務や授業への手配もあり、ようやく数日後の6月29日に入院することができた。
翌日は6月30日。1959年のこの日、沖縄県本島の石川市(現・うるま市)にある宮森小学校にエンジントラブルを起こした米軍戦闘機が墜落して炎上、11人の生徒と6人の一般住民が亡くなった。そのうえ、激しい火傷やケガなどで負傷した生徒や先生も含めると210人という数。すさまじい大事故であったが、脱出したパイロットは無事、しかも本国へ帰国した。
昨年はこの大事故から50周年目の節目の年に当たり、また事故当時、小学校2年生で宮森小学校の生徒でもあった平良嘉男氏が校長として赴任し、母校に当時の資料や遺品を保管、展示する「石川・宮森六三〇館」を設置する委員会もつくられた。
その日、ぼくも沖縄大学の学生といっしょに参加し、今年3月に行った「第55回子どもを守る文化会議・沖縄集会」では、平良先生に記念講演もお願いし、全国から集まった600名あまりの方々に、この事実を知っていただくことになったのだった。
したがって今年も参加するつもりでいたが、結局参加できず、学生たちが千羽鶴を持って式には参加してくれ、ぼくは固いベッドのうえでテレビと新聞に見入っていた。
防衛施設庁によると、全国で発生した米軍事件・事故件数は、本土復帰後からでも33年間で4万2416件もあり、そのうちの59・5%が沖縄で発生しているという。そのなかには、読谷村で起こったパラシュート降下訓練で、自宅へ降下してきた米軍のトレーラーの下敷きになって圧死した小学5年生の少女もいる。
飛行機の騒音、日に100回超
また、嘉手納町の屋良小学校は米軍基地のフェンスから200メートルの距離にある。戦闘機の離発着の際に発生する爆音、振動、鼻をつく燃料のにおいで授業にも集中できない。5月になると飛行機墜落事故を想定しての避難訓練も日常的に行なわれている。
6月30日付の沖縄タイムスには、この屋良地区では、人が不快に感じる70デシベル以上の騒音は一日に200回発生し、なかには100・5デシベルに達した記録もあるという。
屋良地区の騒音は年々激化し、昨年度の一日平均騒音発生回数の113回を大幅に上まわっていると書かれている。つまり、沖縄の学校も地域も基地に囲まれ、基地のなかにあるのが実態と言える。
ぼくが住んでいるのは、南部の南風原町なのだが、この戦跡を歩いていると「あなたの立っている足下には、まだ戦没者の骨がそのままになっているのですよ…」と聞かされる。65年が経ったいまも、沖縄は戦跡であり戦場なのだ。戦場であったあちこちでいまも戦没者の遺骨が眠っている。
6月23日、県立博物館でシンポジウム「骨からの戦世」があった。そのなかで遺骨収集団体「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さんの報告があった。この団体は、緊急雇用創出事業として始められ、失業者への仕事として提供されたものであった。
ところが、この遺骨収集作業はたんなる作業ではなく、掘り出し、手を差し伸べていくうちに、遺骨が語り出す「声を聴く」ことに変わっていったというのである。骨やモノ(遺品)が語り出す。
読者コメント