昨年6月に「いじめ防止対策推進法」がきわめて短い審議期間のうちに制定された。いじめや体罰が社会問題となり、小中学生などのいじめ自殺事件が相次いで世間の関心が強くなったことを受け、いじめを制圧するとともに、道徳教育を国として推進していくことが目玉となった。たしかにいじめ問題はたんに教育現場だけでなく、大人社会でも深刻な状況もあり、社会全体で取り組まなければならない。
しかし、今回の法制化は学校関係者や専門家、そして当事者としての子どもを含めての広く公平な検討を経て練りあげられたものではなく、その実効性にも限界があり、ときには根本的な解決への取り組みに際して、支障になることすら危惧される。この法律では加害者と被害者という二者が想定され、いじめを行なった生徒を認定し、被害を受けた生徒と分離して、いじめを行なった生徒を警察に通報したり、懲戒を与えたりすることができるようになった。もちろん被害を受けた子どもの保護は、命を絶つほどの深刻さがあるとの認識に立って速やかに行なわなければならないが、加害者となった子どもだけを特定し、隔離すればすまされない。いじめ問題は、ときに加害者と被害者が過程のなかで入れ替わることもあり、根本的な解決に隔離や厳罰化という制圧論や道徳教育では危ない。
いじめ防止法の限界
いじめ対策が加害者を排除して、教育現場への封じ込めに向かうと、逆にいじめ探しによる学校やその周辺での子どもや大人どうしの不信感が増幅して、「安心して失敗しながら成長できる」という子どもの本来持っている力を損ないかねない。少年事件が起こるたびにくり返される厳罰論や根強い体罰容認論なども、子どもの可能性を信じられない大人社会の苛立ちの表れかもしれない。子どもたちの問題は大人社会には見えにくい。目に見えないから、すぐに安易な芽を摘む対処に走りがちになる。不寛容教育(ゼロトレランス)はその代表であろう。
大切なことは大人の怒りに任せた制圧ではなく、子どもの視点に立った教育や子どもを信じて育てていく姿勢であろう。まずは、子どもが安心して生きていける権利の保障である。いじめであるか、いじめでないかを超えた子どもの安全な学校生活や家庭生活の保障が、社会全般に必要な認識であろう。学校で安心して学べないときには、家庭で学ぶ権利も保障されるべきであろう。そういった発想はこの法律には残念ながら見受けられない。いじめで不登校になった子の経緯を見るが、みな、そうかんたんに不登校になるわけではない。子どもなりに無理を重ねてこれ以上がんばれないところで、学校から足が遠ざかっている。不登校になることは、いじめ自殺を選ぶより自分の命を守る勇気のある行動でもある。
「いじめ防止対策推進法」が施行され、すぐに道徳教育が科目として導入されることになり、規範意識や愛国心、そして情緒的な安定など心の問題にも介入が始まってくることだろう。しかし、道徳教育がいじめや子どもたちの抱える問題をすべて根本的に解決してくれるわけではない。子どもがいじめやそれぞれの抱える状況を乗り越えていくためには、多くの学校に関わる人たちの支援が必要であり、子どもたち自身も他者の権利についてもっと学びが必要であろう。命の大切さとはたんに死なないということだけでなく、人として生きる権利の大切さを知ることでもある。いじめ問題の理解は、人として生きる権利の学習のくり返しのなかで育まれていくであろうし、いじめ問題への対応で、子どもの権利の保障が尊重されていくかどうかが、試されている。
信頼関係のなかで 自立と尊重を
いじめや体罰は許さないという毅然とした態度や、いじめられていた子どもの安全な保護という対応は「いじめ防止対策推進法」を待つまでもなく重要であるが、いじめを行なった子どもを隔離して厳罰を受けさせるのではなく、その行為をした子どもが教育的指導を受けて、自らの行為を顧みてどう成長の糧にしていくか長い目で見守っていくことも大人社会の努めである。すべての子どもは未来の大人として社会の主人公になっていく。子どもの権利を保障を大人社会が守っていけるかどうか、いじめの加害者や傍観者たち、逸脱行動をする子どもたちの関わりのなかで試されようとしている。子どもを守るということは、いじめを生む学校環境の見直しと、教育のあり方そのものへの問いかけでもある。攻撃と暴力の連鎖を生むような威圧と恐怖の教育に頼ることは危険であり、子どもたちは信頼関係のなかで、自立と他者への尊重を学びながら成長できるような教育環境を提示していくことがむしろ大切ではないだろうか。(小児科医・森英俊)
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