「家庭内暴力から」 関川ゆう子(千葉)

 私の子どもたちは長男と次男が不登校ですが、今日は長男の話をしたいと思います。長男が中学校3年生のとき、だんだんと元気がなくなって夏休み明けから「学校に行きたくない」と言い出したのが始まりでした。それまで活発な子でしたが急に暗くなったんです。最初は「思春期だからかな」と思っていましたが、それにしては、つねに不安そうで、私のもとから離れない。ある日からは、学校の物に触るとじんましんが出始め、学校に関連する場所には極端に行くのをいやがりました。もちろん学校に行くのはつらそうでした。

 その後、高校へも行かせましたが、始業式の日に「もうこの子は学校に行かないかも」と思いました。私はどこに相談していいかわからず、とにかく息子を心療内科に連れて行きました。その夜、とっても息子は不機嫌になり、家中の窓ガラスを割り出し、テレビやパソコンを全部壊しました。その段になって「ああ、こんなにイヤだったのか」と思ったんです。

 息子のことに近所の人も気づき、私に奥地さんの講演を勧めてくれました。その縁で故渡辺位先生(児童精神科医)と奥地さんが主宰する親の会「親ゼミ」に参加し始めました。

 渡辺先生との出会いは本当に多くのことを学びました。ある日、渡辺先生から「あなたはなにが不安ですか?」と聞かれたんです。私は「どこかに所属していない、どこにも行ってないことを息子は不安がっている」と答えました。渡辺先生は「それはあなたの不安なんじゃないですか」と。スタートはここからでした。

 ある日、渡辺先生は「どんな種でも、その種が成長していけるような環境があれば、種は根を張り芽を出して大きな木に育ちます。でも、その環境がなければどんな植物も絶対に育っていけない」と言ったんです。私は息子がどこかに行ってくれればという下心をずっと思っていました。もちろん息子はガンとして行きません。でも、どこかに行くから育つのではなく、安心できる家や家族がなければ、どんな環境でも育たないのだ、と思ったんです。つい私は「社会や学校についていけないのでは」と先のことを心配します。でも、渡辺先生は「いつも咲いている花を望むなら造花を飾りなさい」と言いました。本当にいのちが育っていくためには、根を張り芽が出る時間が必要なんじゃないか、と。そして、息子を変えよう変えようと思っていましたが、私自身が渡辺先生やゼミのみなさんと学びあうなかで、少しずつ変わっていったように思います。

 息子は5年間、鉛筆すら持たない生活をしていましたが、大検(現・高校卒業認定試験)をとり、介護士の仕事を3年間した後、現在は大学に通っています。

 

「父親が見た不登校」 

  1997年の夏休み明けに、長男が学校に行かなくなりました。朝になると「起きられない」から始まり、しだいに「頭が痛い」「熱っぽい」と。最初は休ませていましたが、一週間ほど、その症状が続き、教員をしていた妻が「これは登校拒否ではないか」と。

 私は「将来どうなるか、わからんぞ」と息子を脅したりすかしたり、さんざんいろいろしましたが、とにかく息子はガンとして行かない。「なぜ行かないんだ?」と聞いても、何時間も黙りこくっている。本当にあのときはどうなるかわからないと焦りました。

 あとからわかった話ですが、学校の部活中に漏らしてしまったことなどが学校から遠ざかるきっかけだったのかと思います。

  親として悩んだのは、本人が不登校を気にしていたことですね。車で移動するとき、息子はまわりから見られないよう車のなかで隠れるんです。私は「悪いこと をしているわけじゃないんだから、やめてくれ」と何度も言いましたが、やはり本人がそういう気持ちでいるときは直らなかったですね。ある人から息子は「川 村くん、キミはエライよ、自分で行かないと言って行かないんだから」と言われました。それにはだいぶ勇気づけられたみたいです。

 その 後、息子は甲子園へのあこがれもあり、高校に進学しました。と言っても、野球はうまくないし、入った北星余市高校も野球部が弱いんですよ。ただ、3年間、 部活を続けて24年ぶりの一勝をあげたときは、息子より私のほうが喜んでしまいボロボロ泣きました。私の支えになったのは、高校のPTAです。同じような 体験をした人がつながり、自分の体験を言葉にする。これが本当に大事なことなんだと実感しました。そこで、息子が卒業してからは親の会に関わり、お父さん たちを対象にした例会もつくっています。

 いまふり返ると、子どもにとってみれば不登校は必然だったと思います。あれで人生が狂わされた とは思いません。私がよくよく学んだのは、子育てにまったく関わってこなかった父親が子どもの不登校で「いざ」と出て行ってもろくなことはない、と。お父さんは、悔しいかもしれませんが、割り切って主役のお母さんを孤立させないよう向き合っていくことです。それはまちがいなく、いい結果を生むと思っています。(北海道)

「祖母になっても」 

 私にも3人の娘がいます。長女と三女が不登校をしていました。現在、長女は41歳。当時は不登校という言葉もなく、登校拒否という言葉さえほとんど聞かない状況でした。

 高3のとき、急に長女が学校へ行かなくなりました。学校に行かず、ずーっと家で寝ていたんです。まったく起きてこず、息をしているのかと思うほど心配な毎日をすごしました。そのときは学校へ行かなくても、生きてさえいてくれればと思いました。

 その後、長女は卒業のために、何日か一度、顔を真っ青にしながら、私に連れられて学校へ行きました。

 三女が学校に行かなくなったのは小学校4年生からです。中学校には2日間だけ行きました。校長先生から「学校に来ないと卒業証書を出さない」と言われても行きませんでした。

  私のところも田舎です。両親や姑、まわりのことでは苦労しました。義母は不登校を受け入れがたかったでしょう。これまでの生き方や家を守ってきたことが大 きかったんだと思います。世間というか、まわりからもいろいろ言われました。娘に送られた同級生からの手紙では「このままじゃ、あなたはダメになる」と書 かれた手紙もありました。家の外から大声で娘が呼ばれたこともありました。「もうここには居させられない」と思い、子どもといっしょに別の家で住んでいた こともあります。

 なにより私は自分自身を責めていました。私は、なにごとにも一生懸命でした。嫁もしてたし、妻もしてたし、母もしていたのに「なぜなの?」と。その後、同じような経験をしている親の会の人と出会い、やっと、すこしずつ自分が変わっていったように思います。

  いま長女と次女に2人ずつ、子どもがいます。次女は今年4月から教師を始めてたいへんらしいんです(笑)。三女はいろんな経験を経て、いまいっしょに暮し ています。本当にたいへんでしたが、孫はカワイイですし、娘とも暮らせていますし、3人の娘が、こんなしあわせを運んできてくれたんだと、いまは思ってい ます。
 「生きてさえいてくれれば」、どんな未来が開かれるかわかりません。きっと新しい時代が来たとき、答えがわかるでしょう。奥地圭子さんに初めてお会いしたとき「この子たちは、新しい時代をつくる子たちですよ」との言葉に勇気をもらい、いままで来ました。(岡山県)

「震災と不登校と」 

  うちには子どもが3人います。最初は次男が小学校5年生のとき。林間学校に帰ってきてから行きしぶりが始まりました。林間学校では行事になかなか参加でき ず、先生からさんざん指導されていたみたいです。のちのち発達障害だと診断されたので、その影響があるのかもしれません。そうこうしているうちに、長男が 中1の2学期から行きしぶりを始めました。

 気仙沼は田舎ですし、不登校の子が通うフリースクールもないです。学校はとりあえず出席だけでもと言いますし、同居している祖父母の手前、嫁という立場もつらく感じています。

  なので、なにが一番の悩みかと聞かれると困りますね。ひとつは息子二人が不登校ということがありますが、子どもによって言うことがちがうというのは悩みま す。次男は学校が好きじゃないんでしょう。はっきりと「学校に行きたくない」と言います。でも長男は「学校には行きたいけど行けないんだ」と言う。たしか に長男の場合は、アトピーが出るし、頭や腹、体が痛くなることがあります。一時、体が硬直して救急車を呼んだこともありました。きっと家に居て穏やかにす ごせていればちがうんでしょうが、ヒマを持てあましている姿をみるのは親としてつらいですね。なにかやりたいことを見つけてほしい、つねにそう思っていま す。
 ただ、震災でせっかく生き残った命ですからね。私は、震災時、職場にいました。職場から見た波の動きはショックでしたね。家族の安否は、ほ どなくして、たしかめられましたが、数日間、実家には帰れず、燃える海岸を見ながら案じていました。戻ってからもガス・水道・電気は全部ダメ。数時間、開 店するスーパーには、ふだん家の用事を手伝わない子どもたちが手伝ってくれました。昼夜逆転もしていましたが、電気もないので朝起きて、みんなでご飯を食 べて生活しました。夕食時はローソクを立てて食べていたので、子どもたちは「クリスマスみたいだね」って(笑)。

 日常に戻ってからは、またふだん通りに戻りましたが、子どもたちもなにかあればやるんだなとは思っています。(宮城県)