今回のインタビューは朝日新聞記者の氏岡真弓さん。1984年入社、1993年以降は朝日新聞を代表する記者として、つねに現場から教育を取材。いま、氏岡さんは子どもをめぐる状況をどう捉えているのだろうか。
――氏岡さんは子どもをとりまく状況をどう見られているでしょうか?
校内暴力、いじめ、不登校といった子どもたちの問題が教育報道のメジャーだったころから比べると、学力低下が問題視されたあたりから、子どもたちへの眼差しが変わってきたなという印象を持っています。もちろん、かつての取り上げられ方がいいとは思っていませんが、不登校や校内暴力が社会的に注目されていたときは、少なくとも子どもたちの思いに眼差しが向いていました。それに比べるといま、子どもたちへの眼差しはどこまであるのだろうか、と。子ども自身の思いより、どんな人間、「人材」が社会に必要なのか、そこばかりが注目されていないだろうかと思うんです。
たとえば「子どもの権利条約」についても、以前ならば「これは必要だ」と言う人がもっと多かったと思うんです。でも、いまは「子どもがわがままだ、何を言い出すかわからない」という風潮が強くなってきている。なぜなのかと理由を聞かれるとまだよくわからないのですが、記者をしているなかで感じている部分です。
大人の状況の裏返しが
子どもを取り巻く状況で感じていることのもう一点は、「これは子どもが問題なのだろうか、大人の問題ではないのか」と改めて思うことが多いことです。最近、強くそれを感じたのは被災地の不登校でした。彼らの生活を見ていると、生きていくのが精いっぱい、「もう学校へ行くエネルギーなんてないよ」と私なら思う状況です。子どもが抱える状況は大人の状況の裏返しだと言われますが、取材をすればするほどそう感じることが多くなってきました。
――自分を語る子どもが少なくなってきたようにも感じるのですが?
それは強く感じています。いつごろからか、子どもへの取材が「しづらいなあ」、「本音がなかなか聞けないなあ」と思っていました。50代という私の年齢のせいなのか、取材力がないせいなのか、もちろん最近は学校の子どもに話を聞こうと思うとピタッと先生が横についているという状況もありますが(笑)。
そうしたことを差し置いても、子どもたちがなかなか言葉を持てない、言葉として結晶しきれないという状況が増えているように感じます。ただ、それは子どもの問題というより、子どもに向けた眼差しがない、子どもの声の受け手がいないからではないか、と。テニスでラリーをしたいのに、壁打ちばっかりしているような状況ですからね。
たとえば全国一斉学力テストに付随して行なわれる子どもへのアンケート調査。この調査では「学校は楽しいですか」「数学は将来、役に立つと思いますか」といった質問を投げかけて、子どもたちの意識調査をしています。
子どもたちの意識調査の回答を見ると、軒並み肯定的な回答が増えています。文科省は「成果だ」とも言っていましたが、私には子どもが自分の意見よりも、大人の意図を反射的にくみ取っているように思えるんです。先ほどの被災地の不登校の子への取材で、不登校の理由について自分から話してくれる子がいたのですが、「ちょっと気を抜いてて、行けなかった」と言うんです。でも、本当は気が抜けるような状況じゃない。むしろ気が張り詰めていたはずです。自分の言葉が自分の心を裏切る、そういうことが形を変えていくつも見られるような気がしています。
学校の役割とは
――教育について質問したいと思います。氏岡さんは公立の小中学校はどんな役割を担うべきだと考えていますか?
社会に出てだまされない力を教えるのが学校だと思っています。
たとえばお金の計算や人となかよくするといったとても基本的なことを教えるのが学校の役割です。ただ、それは学校だけが担うことじゃありません。じつは私が社会部教育班の一員になったばかりのころ、教育面に記事を書いたのが東京シューレのホームエデュケーションについてでした。見出しは「家で自分で学んで生きる」。新聞に掲載すると、強烈な反応が返ってきました。「学校に行かないと社会性は育たない」「家のなかでどうやって人と付き合っていくんだ」と。声を寄せていただいた方全員に、私はお手紙を出しました。「学校じゃないと社会性が育たないということはないんじゃないか」と。
ご質問に戻ると、学校の役割については、その記事を書いたときにすごくたくさん考えさせられたテーマでした。
――氏岡さんは個人のツィッターで「教育は誰のものだろう」と書いていますね。
そこがすごくいま悩んでいるところです。教育は子どものためなのか、大人のためなのか、個人のためなのか、社会のためなのか。なんとなく共存しているようでもあり、じつはバッティングしてしまうこともよくある。むしろバッティングしていくような事態が増えているようにも感じるんです。子ども本人のための教育よりも、社会のための教育をという傾向が。
教育は誰のためにあるんだろうと考えてしまうもう一つのきっかけは「明日のためにがんばりなさい」というメッセージです。大人や学校は「明日のために」と教えていますが、子どもからすれば「そんなに先送りにできない今日がある」、と。今日を犠牲にする明日ってなんなのだろうと考えてしまうんです。
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