「フツーの子」ってなにかしら
――落合さんは、いつも子どもに目を向けて活動をしておられますが、いま、起きている子どもの事件などについては、どのようにお感じですか。
私のなかでもわからないことはたくさんあります。最もしたくないことは、分析して絶対化してしまうということです。人間の気持ちや感情の揺れを見えなくしてしまう。そういう部分は、正直に言ってわからないというほかなくて、それをわかったものとしてどんどんすすめてしまってはいけないと思います。
「心の教育」などとも言われていますが、心は自分なりに自分で育てていくものであって、外側から教育できるものではないですよね。
ただ、言ってることは、いま起きている多くの事件は、社会システムと深く重なった事件であって、そういう視点が落ちると、個人にすべてが集約されてしまう。マスコミの論調のように「フツーの子がキレた」と。
誰しも、人を刺したり傷つけたりすることがいいことだとはいえないし、それは犯罪には違いないけれども、しかしその背景にあるものは何なのか。そういう状況に追いこんでいるのは何かという視点が必要だと思います。それに、「フツーの子」ってなにかしら。人の数だけ「フツー」はあるのに。そして、「キレる」までに、ためこんだものがあるはずなのに。
――落合さんの子ども時代を思い起こされてみて、何かいまに通じることはありますか。
私は「私生子」として生まれました。私はただの子どもとして生まれてきたのに、社会が「私生子」「非嫡出子」といったレッテルをはり、戸籍に登録され、まわりからも同情されたり、明るくしていると逆に、「どうしてそんなに明るくしているの?」と聞かれたりする。そういうところで、フツーという基準を決めつける社会の息苦しさを、小さいときから感じていたように思います。
――フツーとは何かが問われなければいけませんね。
数年前に書いた本で、「あなたの庭では遊ばない」(講談社)という小説があります。これは、母と私の関係と、母と祖母がどういう親子関係を生きたかということを描いたものです。母は、状況のなかで疲れきって、かなり強度の神経症をかかえていきました。
母は一時期、本当に一間の部屋から出ることができないこともありました。。その母が、ある日「私はこの状況のなかにいるのが一番ラクなのよ」と言ったんですね。私は、彼女にとってそういう状況がラクならば、いまこの状況しか考えられないじゃないかと思いました。ベストかどうかはわからないにしても、ベターであるならばいいじゃないか。いま、ここにある彼女の個性として受け入れるしかないじゃないか。彼女に見える景色をむしろ私が学んでいこう、と。
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