連載「不登校の歴史」
金属バット事件について、ややくわしくとり上げてきた。読者のみなさんはすでに、なぜここまで子どもが追いつめられ、父親が追いつめられたか、おわかりになったと思う。
男の子はつらかったにもかかわらず、長期間、休むことを認められなかった。「学校は行き続けなければならない」という育てられ方をすれば、子ども自身も学校を休む自分を自分でも認められない。無理をして登校し続けるだけではなく、どうしても行き続けることができなくなってしまうと、自分への自己否定感は強まり、自責と苦悩で気も狂わんばかりに苦しい。
しかし、「あるべき自分」にはなれない。なれないが、それは許されない。この葛藤のつらさが家庭内暴力につながる。家庭内暴力は家族にとっても本当につらく苦しい。考えられるあらゆる努力を父親はやったあげく、父自身が余裕をなくし、「もう殺すしかない」と思ってしまう。
しかし、父親は「自分が学校へ通わせ、進学させることこそ親の責任であり、子育ての方向なのだ」と思いこんだうえでの悲劇であることには気づかなかった。学校へのこだわりはそういう意味ではおそろしい。生身の子ども自身の心、体、いのちを丸ごと見ることを妨げてしまう。あくまで、親自身の「こう!」と思う方向で、がんばらせてしまい、子どもはたいへんな苦しみに追いつめられる。
この種の事件は、子どもの側に立って考えねば、再発を防ぎようがない。
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