吉本隆明の存在は、戦後という時代が生んだ奇跡のような思想家である。その吉本さんが逝って、はや3週間が過ぎた。ご家族の好意で入院中の吉本さんを見舞うことができたのが2月29日、二度目に見舞ったのは亡くなる前日の3月15日の午後であった。この日は酸素マスクの吉本さんと一人対面した。呼吸が浅く、荒く、1月15日に現世を旅立った父の間際の状態とそっくりだった。額に手をやり、肩から胸にかけてパジャマの上からさするように触れた。耳元で声をかけると、前のときのようなしっかりした反応はもらえなかったが、目が動くようで、ことによったら聞こえているのかもしれないと思った。結局、これが私の眼に写し取った吉本さんの最後の姿となった。
1970年以来、知遇を得ての、吉本さんとの交流について、晩年の5年におよぶ離反については、別のところで書いたので関心のある方は見てもらいたい(『文學会』)。
ここでは、吉本さんのひきこもり観一点にしぼって、一言記しておくことにしたい。吉本さんによるひきこもり理解に対する本質的な寄与は、その言語論において明らかになる。
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