就職や進学をすれば、「不登校は終わり」なのだろうか。不登校から得た葛藤や思いは「その後」にも影響する。「不登校、その後」に何を考え、何を感じるのか。現在形の思いを執筆してもらった。
「その後」というのは奇妙な言葉だ。終わるが終わらない。終わらないが終わる。そんな逆説的で両面的な響きをもっている。日本人の多くが知っているだろう「戦後 POST WAR」ということばもそうだ。戦争は終わったが終わっていない。そういう含みがある。
他方、わたしにとって、「不登校」は、圧倒的に、終わってしまったものの側にある。学校という小さな世界の、そのまた小さな不登校というエピソード。強いて言えば、室町時代や古代ローマの一事件のようなものであるといえばいいだろうか。
応仁の乱の「その後」やポエニ戦争の「戦後」として現代を語るのがむずかしいように、不登校「その後」として現在の自分は語りにくい。"したいこと”や"したくないこと”の基準が今とはちがいすぎてしまっているからだ。どういうことか、少し説明しよう。
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