不登校新聞

330号(2012.1.15)

論説「若者にとっての311」芹沢俊介

2013年08月23日 18:48 by kito-shin
2013年08月23日 18:48 by kito-shin



無常の先にある力強さ

 3・11は若者にとってなんだったのか。

 11月初旬、演劇を志す20歳前後の若い人たち40人と3・11の出来事が自身に与えた影響について話し合う機会があった。

 彼らは地震と津波の衝撃についてほぼ一律にこう語った。

 明日自分がどうなるかなんてわからない。生きていることはつねに死と隣り合わせ。地震のさなか「死ぬかもしれない」と思った。しかし、死んだのは私ではない。私は生きている――。

 これらの発言は、はかなさ=無常という言葉に集約できよう。こうした無常への感受性をもとに彼らは続けて次のように述べた。だからこそ後悔しないように毎日をすごしたい、もっと毎日を大切にしなければという気持ちが強くなった、と。もちろん、その対極にいつ死ぬかわからないから、生きているうちに好きなことをやりまくろうという刹那主義に傾いた自分を正直に口にした者もいた。

 では8カ月経ったいまはどうか。震災を過去の出来事にしてしまっている自分への反省を、被災地の人に対し他人事にしか思えなくなっていることへの罪悪感を語るのだ。

 そしてここが肝心なところだけれど、彼らの多くが、そのような反省や罪悪感を抱え、これといった解決を得られないまま「いままでどおりにできるところから元通りに生活していこう」という考えにたどり着いているのである。大揺れ状態から態勢を立て直すにいたるまでの8カ月、彼らの示した反応のシャープさ、しなやかさ、力強さには驚愕に値する。

 ひるがえって私はどうだったのか。この間、二つの無力感にふりまわされていた。いまも状況は大きくは変わっていない。無力感の一つは、若者たちと同じ無常=はかなさという感覚であり、私の場合、突き詰めていけば、誰も死を回避することはできないという、死に対する無力感に至りつくようだ。

 もう一つは「よるべなさ」と呼ぶべき無力感であった。よるべなさは、いのちが自分を包み込んでいる環境に対する安心感を喪失したことによってもたらされる状態である。具体的に述べれば、私たちの命が全的に依拠してきたわが家、わが家を構成する土地、空気、植物が東電の起こした原発事故によって、激しく汚染されてしまったのである。

 私の住む千葉県我孫子は放射能のホットスポットである。わが家について言えば室内、室外ともに線量計は、ほぼ同じ数値を指している。年間にすると1・75ミリシーベルトという高被曝量になる。側溝や草地はさらにその20倍、30倍だ。ぼうぜんとしてしまう。それだけではない。これまで常食としてきた地元千葉や福島、茨城といった土地が産出する野菜、魚介類は汚染されてしまっていると考えざるを得ず、そうなると何を口に入れていいのかわからない状態になる。さらに、いのちの存続というテーマに関して言えば、放射線物質に対する感受性の鋭い子どもや若い人ほど危険度が高いのである。

 膨大な人々がきわめて長期にわたるよるべなき状態に追い込まれている。それなのに東電は、放射線物質を広域にわたって高濃度に降らした罪に対する責任を回避しようとしている。管轄地を離れた放射線物質は無主物であると弁じ、それゆえ汚染物質除去の責任はないと主張する。しかも司法がその主張を追認してしまったのだ。毒性物資を撒いておいてそれを無主物だとする言い分が通るなら、毒物散布によるどんな凶悪犯罪も罪を問えないことになりはしないか。この国とこの国の企業は、私たちのいのちにどんな安心の地を約束しようとしているのだろうか。若い人たちにはぜひ注目してもらいたい問題である。(社会問題評論家)

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