「不登校の子どもの居場所をつくりたいんです。その呼びかけ人になってくれませんか」
奥地圭子さんは歩きながら、まだお元気だった教育評論家の金沢嘉市さんに向かって語りかけていた。早稲田大学文学部の前あたりの歩道、どんな集まりの帰り途だったかはまったく覚えていないが、その一生懸命に頼む姿と声だけはよく覚えている。
『婦人民主新聞』(現『ふぇみん』)の記者になりたての私は、その集まりを記事にするために参加し、帰っていく講師(正直、そのときの講師が誰だったのか覚えていない)たちの後ろを歩いていた。当時は一般的に登校拒否と言われていて(今でも、自らの意志で拒否ということばを使う人はいるけれど)、不登校という言い方が新鮮だった。
社会病理として
忘れっぽい社会だからあえて書くけれど、30年少し前のその当時、登校拒否は親の育て方の問題であり、その子は病気とされ、"社会病理”であった。家族そろって医者に行き、家族全員が薬を呑まされ、自ら命を絶つ子も親もいた。
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