不登校新聞

325号(2011.11.1)

【公開】宣言の深さに触れた思い 喜多明人

2013年11月26日 16:06 by kito-shin
2013年11月26日 16:06 by kito-shin


論説「宣言の深さに触れた思い」喜多明人


 「不登校の子どもの権利宣言」(本紙322号参照)をつくるきっかけは、フリースクールの子どもたちが、ユニセフ展示会に行って、ガイドさんから「あなたたちは幸せだけど世界にはこんなに不幸な人たちがいます」と説明されたことに疑問を持ったことだそうだ。
 
 「私たちはそんなに幸せなのだろうか」と自問自答して、たどり着いたのが「子どもの権利条約」。1年間の学習活動の成果が、この権利宣言に反映された。
 
 子どもにとって権利とは、自分たちの幸せをはかる尺度なのだろう。宣言1「教育への権利」に対する補充説明にはこう書かれている。

◇「周りの大人たちに、『義務教育くらいは学校に行きなさい』とか、『義務教育なんだから』って言われる様になっていやだったし、義務って何だろうって強く思った。
 
 子どもが学校に行くことが義務ではなくて、権利だということを後から知って、自分はまちがってなかったんだ、と本当の意味で安心することができた」◇
 
 「本当の意味で安心することができた」と感じているところに、「権利」としての本質的な意味合いが含まれていると思う。その意味では、子どもの権利については、こう説明されているところも参考になる。

宣言12 "他者の権利の尊重”


◇「権利」とはなんだろう。私はいまだによくわからないけど、たぶん、「当たり前」そして「当たり前の大切さの再確認」ということだと思う。私は、この「不登校の子どもの権利宣言」をつくっていたときに、「これはもしかしたら、自分の当たり前を、相手に押し付けているのではないか?」と考えたことがある◇
 
 子どもにとって権利とは、生まれながらにして、根源的な意味で、子どもひとりひとりに内在するものであり、ごほうびとして人から与えられるものではない。だから、自分の中にある、その存在に気づいたときに「本当の意味で安心できる」のだ。
 
 だから、子どもにとって当たり前の意思と要求を求めていくことが大切なことであり、自分に合った方法で学びたいと言う当たり前の要求をだすことが、「権利としての学び」であるのだ。
 
 やれ「わがままだ」「権利より義務だ」と叫んで子どもの権利を認めたがらないおとなたちは、子どもにとって当たり前の人間としての意思や要求を受けとめようとしないで、おとな側の意思や要求を押し付けたがる人たちだ。
 
 宣言13の「子どもの権利を知る権利」は、だからこそ、とてもとても大事にされなければならない。補充説明にあるように「自分の権利について、知っているのと知らないのとでは、価値観や考え方が大きく変わってくる。とても大事なことだと思う」。
 
 そう、この宣言で学ぶべきは、価値観の転換なのだ。この補充説明を読んでいて、そんな宣言の深さに触れた思いがする。(早稲田大学)


『子どもはいのちという原点から』


 「不登校の子どもの権利宣言」は、2009年に東京・早稲田で開催された夏の全国合宿にて採択された。
 
 同大会記録集である本書巻末には宣言文の全文が掲載。奥地圭子氏、芹沢俊介氏の講演録のほか、喜多明人氏、山下英三郎氏、内田良子氏によるシンポジウム抄録も掲載。さらに、全国の親の会一覧なども紹介。
(東京シューレ出版・1365円)


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