不登校新聞

284号(2010.2.15)

【公開】いのちとはなにか「福祉の中の優生学」

2013年12月06日 12:54 by kito-shin


 社会的介入による人間改良を提唱する社会哲学「優生学」。優生学に基づいた政策「優生政策」としてもっとも有名なのが、ナチス・ドイツによる虐殺である。精神障害者40万人への不妊手術などの優生政策は、戦後、非難を浴び、政治の場から消えたかのように思われた。しかし、社会学者・市野川容孝さんは「戦後の福祉国家でも優生政策は実施された」と指摘する。「福祉と優生学」、市野川さんに、そのつながりを今号から2回に分けて語ってもらった。

戦後の続いた優生思想


――市野川さんは「優生学と福祉」を研究されていますが、二つはどういう関係があるのでしょうか?
 優生学(eugenics)は、イギリスの遺伝学者 F・ゴルトンによって1883年に提唱されました。ゴルトンはダーウィンの親戚です。それからもわかるように優生学は、ダーウィンの進化論、つまり生存競争による自然淘汰が進化の土台になっているという考えの延長線上に生まれました。動物界と同じように、人間もまた進化するために弱者を淘汰すべきだ、という考えです。ただし、ダーウィンも、ゴルトンも、他者を助け合う人道性は人間が進化によって得たものであり「それを一概に否定することはできない」と言っていました。

 優生学のイメージと言えばナチス・ドイツでしょう。ナチスが福祉国家を破壊し、40万人の障害者に不妊手術をするなど「ナチスが優生政策を開花させた」という印象が強いと思います。また、そのため福祉と優生学は相容れないものである、というイメージも一般的です。

 たしかに福祉と優生学は相容れないという側面もありますが、福祉国家だからこそ現実の政策のなかで優生学が実施されたという側面もあります。

福祉国家・北欧による優生政策


 具体的には、スウェーデン、デンマークなど、世界的にも評価の高い北欧の福祉国家では、1930年代から「遺伝性」とされた疾患や障害を持つ人に対して、結婚を規制する婚姻法や、なかば強制的な不妊手術を認めた断種法などが制定されていました。ちなみにスウェーデンでは1934年から75年のあいだ、断種法によって約6万3000件の不妊手術が行なわれました(本人同意の手術を含む)。

 なぜ相容れないように思われる福祉と優生学が結びつくのか。福祉国家では、人々の生活や子どもの成長への責任を、家族や親に委ねるのではなく、国家・社会が責任を持つ、と考えています。子どもは社会の財産であり、その責任が国家や社会にあるのだから、どんな人間が生まれ育っていくのかに介入・監視していく必要があるのだ、と。これが福祉国家のなかで優生政策が行なわれた理由の一つです。ナチス・ドイツも突然、優生政策に進んでいったわけではありません。それ以前のワイマール共和国(注)が下地としてあった。ワイマール憲法では、子育ては「国家共同体がこれを監督する」(第120条)と明記していました。ナチスの優生政策も、福祉国家としてのワイマール共和国の延長線上に位置づく部分があります。

 アルフレート・プレッツというドイツの優生学の第一人者が、1890年代に、優生学の究極目標を「生まれる前に人間の淘汰を完了すること」と定義しました。人間を生まれた後に淘汰するのでは人道性に欠ける。しかし、淘汰がなければ進化に逆行してしまう。だからこそ「生まれる前に」と言うのです。プレッツの時代には、優生学を実践する方法としては不妊手術ぐらいしかなく、それが強制されたのですが、彼の考えが技術的にも出生前診断などのかたちで全面開花するのは1970年代以降です。

 プレッツは1930年代にノーベル平和賞の候補になっています。プレッツを始め、優生学者はたいてい反戦平和論者なんです。優生学者にとってみれば、兵役検査にもパスする優秀な男たちが戦場で死に、逆に戦闘の役にも立たない「低価値者」が生き残る戦争は「逆淘汰」でしかなかった。 プレッツは優生政策を実現するためにナチに入党しますが、それでも反戦平和を訴え続けました。

――日本では優生政策はどうだったのでしょう?
 1936年に日独防共協定が結ばれ、1938年に厚生省(現・厚生労働省)が設置されました。厚生省初期のもっとも重要な仕事の一つが、ナチス・ドイツの断種法に相当するものをつくることでした。そこで1940年に「国民優生法」が定められたのですが、ほとんど機能しなかったんです。

 保守派からは、こういう反対論が出された。天皇を中心とした「家」が、なによりも大事で、たとえ障がいや疾患があっても「子種を断ってはならない」と。1921年、昭和天皇と香淳皇后の婚約について、元老の山県有朋が皇后の家系に「色盲の遺伝がある」と異議を唱えたが、逆に山県が非難を浴びて政治的に失脚するという事件がありました。この宮中某重大事件に象徴されるように、当時の日本は、家柄や家の論理が、優生学を凌駕していた。国民優生法にもとづく不妊手術は1947年までに538件しか実施されず、少なくとも父母の同意がない強制は一つもありませんでした。(次号に続く)

(注)ワイマール共和国……ドイツ帝国崩壊後、1919年にワイマール憲法にもとづいて樹立されたドイツの共和政国家。ワイマール憲法は、当時、世界で最も民主的な憲法とされ、第1条では国民主権を規定している。

市野川容孝(いちのかわ・よしたか)。1964年生まれ。専攻は社会学。現在、東京大学大学院総合文化研究科教授。著書に『身体/生命』(岩波書店・2000年)、『社会』(岩波書店・2006年)などがある。

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