今回から、評論家の芹沢俊介さんへのインタビューを掲載する。芹沢さんは、さまざまな社会問題を捉えるとき、一貫して、その根底に、人の"いる・ある”を受けとめる土壌がやせてきていることを、指摘してきている。
制御不能のマグマが出ている
――最近は、どこでも"居場所”という言葉を聞くようになりましたが、このニュアンスは、かつてはなかったものだそうですね。
居場所という言葉が、まったく新しい意味合いで登場してきたのは、80年代後半から90年代にかけてでしょうね。不登校運動で「居場所」という言葉が出てきたのも、そのころですね。それまでは、あえて「居場所」が語られることはなかった。
その背景には、子どもたちが居場所感をなくしてきたということがある。居場所を定義すれば「安心して安定的に自分が自分であっていい場所」です。そういう場が学校から奪われ、学校が緊張度の高い場になってしまって、それに耐えられない子どもたちが出てきた。そういう子どもたちが、自分でも意図せず問題提起をしたんだと思います。
それをどう受けとめるかというなかで、親を主体とした動きが出てきた。それが親の会だったり、フリースクールなどの居場所だったわけです。それは運動といえば運動ですが、自然発生的な感じでもあった。意図的に創り出したというよりも、子どもたちに対応しようとして出てきたもののように思います。
――すごく生命力のある運動だった感じがします。
しかし、そういうものが、ここ何年かのあいだで消えていっているような気がしてしょうがないですね。たとえば、居場所は外にあるものだという感じになっている。学校の外、家庭の外。でも、子どもたちは学校に居場所がない、家に居場所がないと言ってきたわけです。親は、それを聴きとってきて、対応していたように思う。そこで対応してもらえた子たちはよかったと思う。そういうなかでは、発達障害や人格障害は、まだ問題になっていなかったと思うんですね。
親子関係の再構築を
――では、どう捉えていけばよいと?
もっと手前のプリミティブな問題から考えないといけない状況が生まれてきているのではないでしょうか。発達障害とか人格障害として現象化してきている、その手前。医療的なまなざしで捉えられる以前の問題。自我というものが生まれてくる手前、つまり、子ども期の早期の問題ですね。
赤ちゃんにとって、親は他者じゃない、環境そのものです。子どもの本質的な必要性として、受けとめられたいという欲求がある。絶対に依存しないと生きていけない時期はあるわけですから、絶対受容が必要な時期はあるんですね。そこがあって、はじめて他者が出てくる。もちろん、「絶対」なんてあり得ないとも言えますから、結果としては適当なものになるでしょう。ただ、姿勢として絶対受容で関わらないといけない時期はある。
子どもの存在を保証するというのは、あたりまえのことですが、医療や専門性の問題ではない。必要なのは、プリミティブな地平からの親と子の関係の再構築です。そこで受けとめられてこなかった子どもたちが、自分なりに訴え直しをしているように思います。その声を、どう聴きとっていけるのか。それを「障害」という言葉で片づけてしまえば、「脳の問題」ということになって、あとは治療、それも薬しかないということになる。あるいは、心理関係の専門家の登場ということになる。それはちがうだろうと思いますね。関係の再構築への、ていねいな考え方をつくることが必要だと思います。
それは薬や心理療法を否定しているわけではなくて、あくまで主体は本人と親御さんだということです。薬や心理療法が主になったら、依存をつくるだけです。
読者コメント