不登校とは 近代文明 対 命の重み 精神科医
 

今回は「登校拒否を考える会25周年のつどい」(主催・登校拒否を考える会)の基調講演「親の会25年に思う」、講師・故渡辺位さんの講演抄録を掲載する。渡辺位さんの最後の講演となった。

考える会25周年の集い「親の会25年に思う」

 25年をふり返って思うのは、まず不登校問題はある意味で社会に位置づけられたのかなということです。全国でさまざまな親の会が開かれ、登校拒否・不登校を知らない方が、あまりいらっしゃらなくなりました。もちろん、登校拒否が持つ深い意義や問題性についての理解は、まだまだ不充分なところはあります。

 それに、当事者の不安は25年前より、深刻になっている気がします。この問題を考えるとき、たとえば昨年6月の秋葉原事件なども、大局的には人間観、社会観から相通じるものがあるのではと思います。ようするに、不登校は「学校に行く・行かない」という現象面のみの問題ではなく、不登校は近代文明と生物との狭間で生じる問題なんだ、という視点が必要だということです。

 19世紀ごろからの近代文明の発展はめざましく、とくにこの100年間で世界は劇的な変化をとげ、人口は4倍、穀物消費量は7倍、エネルギー消費量は15倍に増えたと言われています。その反面、自然破壊や温暖化などの問題が見えてきました。そこでこの「近代文明 対 命の営み」という側面から不登校問題も見ることができるのではないか、と思うわけです。

 そうは言っても、お母さんたちにしてみれば、目前の状況が気になるわけです。子どもが学校に行かないと不安だと思います。その不安は、子どものありようが「非日常化」していると捉えているからでしょう。しかし、「非日常化すなわち異常」ということではないんです。たとえば、電車やバス、水道や電気が止まったら、たいへんな非日常の世界です。

 ただ、よく考えてみれば電車や水道が止まろうとも、人間自体にはなんの異常も起きていません。しかし、電気や水道がストップしてしまえば不安になり、なんとか「日常」に戻らないかと慌てるでしょう。これは、私たちがつくった仕組み、文明のなかに飲み込まれていることが「日常化」して、人間本来の状態だけでいることが「非日常」になってしまっているからです。

わが子が化け物に見える

 以前、あるお母さんから手紙をいただきました。手紙には「不登校状態になった子どもが家のなかにいると化け物に見える」と。子どもを非日常化した状態と捉え、違和感を感じて不気味な存在としているということです。

 このように、不登校状態にある子を持つお母さんたちは、学校に行かない「非日常」な状態を、学校に行く「日常の状態」になんとか戻そうとします。そのなかで、子どもは追いつめられ、神経症なども含めたさまざまな反応を引き起こし、最後には自分の存在さえも疑っていく。学校へと促すなかに、命の営みをしている子どもの存在を否定するような力が働いているからです。これは極端に言えば、精神的な虐待にあたる状況だと言えるでしょう。


 母性性により 子どもは育つ

 本来、ほ乳類の親というのは、子どもに対して「母性性」を発揮し、その母性性によって子どもは命が守られ成長し、やがてその種族の一員になっていく。母性性は、子どもを成長につなげるものであり、自然な親子関係であれば子どもは育つわけです。ところが、不登校をきっかけに母性性が薄れていくような状態になった家族をたくさん見てきました。

 なぜ、こんなことになってしまったのかと考えた結論は「母性性にバイアスがかかっているから」なんだということです。バイアスというのは電気工学などで用いられる用語ですが、電気信号の流れに偏向を起こさせることです。ここでは「考え方や行動が、なんらかの影響を受けて自然な母親であることにズレが生じると考えてもらっていいでしょう。

 不登校によってお母さん自身が変わったのではなく、ちゃんと本来の母性性は存在しているんです。だからこそ、わが子を大切に思い育てようとするのですが、そこにはバイアスがかかってくるので、子どもを追い込んでしまう。本来の思いとは逆の作用にしか働かない状態になってしまうわけです。

 虐待も同じことが言えます。たしかに虐待はひどいことです。子どもを母親が痛めつけてしまうというのは本当に悲しい出来事です。でも、これも母親の母性性があるがゆえのことだと考えています。本当は子どもが大事なんです。大事なんですが、親としての責任感からその責任感を全うできるだろうかと考えると、逃げだしたくなる。けれども逃げるに逃げられなくて痛めつけてしまう。

 母性性に社会の常識や建前といっなどといった尺度によるバイアスがかかり、それによる自責から、本来の子どもが大切だ、という思いとは逆の行動が出てしまうわけです。

 お母さんたちは本来、お母さんなのだから、自責などせずに自らを大事にするお母さんであればいいと思うんです。バイアスがかかって親の子どもへの姿勢が変わってしまうと、子どもからすれば、親を失うことになります。

 不登校の子はよく親に「死んじまえ!」と言います。そこで言う「死んでほしい存在」は社会の尺度に子どもを合わせるべくあえて「よき親」としての「Doing Mother(親をすること)」ですが、子どもは本来の母性生に基づく親としての「Being Mother(親であること)」であってほしいんです。だから、「死んじまえ!」っていうのは、本当は象徴的意味としてなんですね。

 それと「もう死にたい」と親に訴える子がいますね。それは親と向き合っている時点での存在感のなさ、自己否定感を親に伝えたいからなんです。本当に死にたいのではなく、”今” という状況のなかで自分を受けいれてほしいのです。「生まれてきてよかった」と思える親子関係を望んでいるということです。ですから、やはり自然な親子関係であることが大事なんだと言えるのです。


依存的な社会と自立した精神

 いま、この社会がますます依存的になっていると感じます。文明のさまざまな発展が、人を非常に依存的にさせています。極端なことを言えば、ボタン一つでなんでも解決する装置がどんどんできています。なにか困難にぶつかったとき、そこからの脱却は自ら工夫するより「ボタン」を探すことになってしまっている。相談に来た人のなかには、まさに「ボタン」を求めて来ていると感じるときがあります。

 さらに現在は、自分の存在そのものさえも他者に依存して、人生を生きるモデルまでも他者のなかに求めて、それをなぞろうとする傾向が強まっています。それは、今の社会のさまざまなことが「目的的」になっていることと無関係ではありません。どこを見渡しても、まず目的があり、それに邁進するところがみられます。学校教育がまさにそうです。たしかに文明は便利ですが、そこに依存しすぎると、主体性が薄れ、気がつかないうちにそのとりこになってしまいます。

 この登校拒否を考える会のルーツになった「希望会」が始まったとき、お母さん方は「この問題は自分たち自身の問題だから、自分たちで会を持とう」と言って、そのグループを自主運営するようになり、会ができました。そこには、まさに自立した存在としての主体性が芽生えていたのです。

 私たちが、文明社会に取り込まれていることを自覚し、バイアスのかかった状態から脱却するためには、いかに自分自身が自分自身として自立できるかどうか、自分がたしかな自分自身であれるかどうか、自分が自分であることを受けいれられるかどうか、にかかっているのです。

 なにかしらの人生モデルに沿うのではなく、自分が生きているからこそ人生があるんだ、と。そう思えるかではないかと思っています。  (抄録)

(わたなべ・たかし)1925年生まれ。児童精神科医。元国立国府台病院児童精神科医長。著書に『登校拒否・学校に行かないで生きる』(太郎次郎エディタス社)、『不登校は文化の森の入口』(東京シューレ出版)、『不登校のこころ-児童精神科医40年を生きて』(教育資料出版会)など多数。

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