多田元と申します。私は弁護士として子どもの問題に関わっていますが、家族内では最下層に位置しています(笑)。弁護士のくせにカミさんと議論して勝ったことがありません。今日は自分のダメおやじぶりと子どもたちへの懺悔をお話します(笑)。
長男の不登校は1985年。小学校6年生のとき、私は山形県で裁判官をしていました。長男は2年間にわたるいじめがきっかけで、文字通り、布団から立ち上がれなくなりました。私たち夫婦はいじめにまったく気がつかず、立ち上がれなくなったその日に、長男がすべてを一人で背負ってきたことを知りました。その後、私の転勤もあり、中学校からはまた通い始めましたが、夏休み明けからは行かなくなりました。
頭に思い浮かんだのは「甘やかして育ててしまったからか」と。私も少年事件の裁判官をしていましたから、「学校に行きたくない」と言う少年たちには「義務教育というのはあなたの義務ではないんだ」と審判の場で言ってましたが、それはよその子の話でね(笑)。
自分の子が行かなくなると、本人の気持ちもわからないし、将来を思うと焦りも感じてくる。無理に引っ張っては行きませんでしたが、家のなかで勉強をするための時間割をつくってやらせたりもしていました。そんな私から隠れるように、押入れのなかで一日中寝ていた長男を見つけて、思わずなぐりつけてしまったこともあります。
いまふり返ると、長男に救われたことが二度ありました。
父親にとってつらいと言えば出勤前です。自分が出勤するのに子どもは寝ている。それを見ているのがとてもつらい。つらいから、それを忘れようと必死に仕事に打ち込んだんでしょう。裁判に来た人のため「最大限、やれることはやりたい」と思っていたら、いつのまにか限度を超えていました。毛細血管が破たんし、胃腸や肝臓からも出血する原因不明の病気です。私は大学病院に強制入院させられましたが、ものすごい痛みで食べ物も水も受けつけることができない。私の前で首をひねる医者を見て、「これはダメかもしれない」とも思いました。そんななか、子どものことを考えていると恨んでしまうんです。痛みのため硬筆が持てず、毛筆で息子に手紙を書きました。「お父さんはこんなに頑張っているのに、お前はなにを学校ごときでくじけて」と。
死への予感から思い出した…
ある夜、痛みがひどく熱も上がり、もうろうとするなかで「いよいよ、これは死ぬなあ」と悟ったときがありました。いま考えると、あれは夢だったのかなんだかわかりませんが、急に長男が赤ん坊だったときを思い出したんです。おむつを履いた長男が自分の腕のなかにいる。おむつの重みや体の温かさ、そういう肌触りまでが全部蘇ってきた。こんなに愛しかったんだと気づき、涙があふれてきました。一晩中、ベットのうえで泣きました。
次の朝、体温は下がり、痛みも軽くなっていました。追い込まれて初めて「長男に生きてほしい、私も生きていたい」と思えた。きっとその思いが病気にも打ち勝っていったんじゃないでしょうか。これが私の原点でした。その後、もう一度、長男には救われています。
それと並行して私の支えになったのが、親の会や精神科医・故渡辺位さんの著書です。渡辺さんの『学校に行かないで生きる』(太郎次郎社/83年刊)。ここに書かれた言葉にはとても感銘を受けました。「直すのではなく理解し、同情ではなく共感し、ともに生きていく」。これが、のちに私が弁護士として、子どものパートナーになりたいと感じることにつながりました。
私のもう一人の子どもの次男坊も不登校です。『Fonte』で『森の喫茶店』を描いていますが、創刊号から一度も休まず描き続けています。中学校から不登校をし、そのころから漫画を描くのが好きで「漫画が忙しくて学校どころじゃない」と言ってました(笑)。
二人の子どもが大人になってから思うことは、子どもが不登校など、いろんなことにぶつかったときに大事なのは尊厳を守っていくことだ、と。親自身も自分を信じること。子育てに失敗したかなとか、甘やかしすぎたかなとか、そういう思いは子どもに対して侮辱的です。彼は彼なりに一生懸命生きています。長男が死ぬかもしれないと思い、夫婦で家中の刃物を隠すなんてバカなこともしました。そんな時期も潜り抜けながら、生きている。学校に行かないことも含めて、自分なりの生き方をしていること、いま生きていることに親は自信を持っていいと思うんです。そう思うことも、子どもの尊厳を守ることです。
あるとき、記者から「不登校した息子さん二人をどう思ってますか」と聞かれたことがあります。私はとっさに「尊敬すべき戦友だと思っています」と。出来の悪い私にしてはいい返事でしょう(笑)。社会の圧力と闘いながら子どもは生きている。そこを支えあいながら、ともに生きていく、そこが親の原点ではないかな、と思っています。(多田元・愛知)
おすすめ記事
読者コメント