今回は、新藤兼人さん。96歳を迎えたいまも、現役監督として、精力的に映画づくりに取り組んでいる。ご自身の戦争体験や原爆についての思いをうかがった。
――新藤さんの戦争体験から、お聞かせください。
僕が海軍に徴兵されたのは1944年4月、32歳のときでした。二等水兵という一番下っ端として広島県の呉海兵団に入団し、その後に宝塚海軍航空隊に配属されました。僕がいた宝塚海軍航空隊は、兵庫県宝塚市にあった宝塚劇場を改修したところに部隊を構えていました。
あるとき、「武蔵」という大型軍艦が沈没してね。助かった乗組員はその後各地に派遣され、私がいる宝塚海軍航空隊にも4~5人の乗組員がやってきました。軍人とはいえ軍服もなく、シャツに下駄や草履というかっこうでね。その乗組員を囲んだ晩は座談会になるわけです。「どのように沈没したのか」とか「どうやって助かったのか」とね。
その一方で、毎朝行なわれる朝礼では、「太平洋では負けているが、いずれ日本が勝つ」「今度、ニューヨークで観艦式を行なうことになった」などという上官の話があるわけです。
しかし、いまの日本がどういう戦況にあるのか、前線から生き延びてきた人の話で知ってしまっているから、むなしいかぎりでしたね。終戦を知らせる玉音放送を聞いたのは、僕が海軍一等兵で防火隊の隊長を務めていたときでしたね。
――敗戦を知らせる放送が流れたときは?
聞いた瞬間はね、ぽかんっとしましたね。これはよく言われることだけれども、スピーカーの音が悪くて、よく聞き取れなかったんです。そして、私がいた宝塚海軍航空隊のような地方の部隊には敗戦したという伝令はすぐには届かないわけ。だから、僕らのような兵隊だけではなくて、上官も日本が戦争に負けたなんていうことを知るよしもないから、みなでぽかんっとしてたよ(笑)。
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