連載「不登校50年証言プロジェクト」


 不登校50年証言インタビューに取り組み始めて半年経ったが、これまで不登校にかかわってこられた医師、研究者、教師の方々の登場ばかりで、70年代の当事者ご自身の登場はなかった。それは、何人か当たってみたものの、受けていただけなかった、という事情もあった。そんななか、70年代に不登校を経験された村上幸子さん(仮名)がインタビューに応じてくださり、当事者としては初登場となった。(もっとも、最首悟さんも、坂本悦雄さんも、小学生のころに休んだり、祖母と同伴登校をしたりしていたので、不登校経験のひとつのかたちと言えなくもないのだが)。
 
 村上さんは、中2の夏休み明けからの不登校だった。宮城県の公立中で、小学校ののんびりムードから一転、長い物差しで子どもを叩くなどの体罰が当たり前で、村上さんは「ちゃんとしなければならない」と緊張していたという。時は1971年、受験戦争がスタートしており、地元に塾ができ始め、クラスのほとんど全員が塾通い。自分は裕福でないと思っていたので、塾に行きたいと親に言えず、ガマンした。しかし、教室の中での会話は塾のことだらけになり、自分がとり残される気持になったと言う。中2の2学期から不登校し、そのころが一番つらかった。成績は急落、好きな美術も何もしたくない、学校に行こうとすると、頭が痛くなる、お腹はおかしい、めまいも出る。
 
 学校にすすめられ、大学病院で受診するが脳波も身体も異常なし、病名のつく診断はないけれど処方された白い錠剤を飲むと強烈に眠くなり、四六時中、頭がボーッとして、とにかく寝ていたという。
 
 中3も何かと口実をつくっては休んでいたが、たった一つの救いは、親が「学校に行きなさい」「勉強しなさい」と言わなかったことだった。もし何か言われたり強制されたりしていたら、非行に走るか、身体症状ももっとひどいことになってただろう、親には感謝している、とのこと。
 
 その後、高校には行くが、激やせし、中学時代の不登校経験を抱えこんでいたため、高校生活を楽しむことはなかった。高校を卒業したときに、何ともいえない解放感を感じたのは、一生忘れられない、という。
 
 しかし、罪悪感を長く引きずり、結婚するまでは下を向いてばかり。「人と目を合わせたくなかった、人と会いたくないし、関わりたくなかった」と言う。結婚後、息子が不登校になるがそれも受けいれられなかったそうだ。
 

転機は51歳 過去と向き合い

 
 転機は、51歳で入学した大学の心理学講義のなかで、「将来ソーシャルワーカーとして相談を受けるにあたって、自分のことをよく知っておかないと苦しくなる」という話を聞き、過去の不登校経験と向き合わざるを得なくなったこと。そのなかで家族問題も客観視できるようになった。
 
 高校卒業後は、大手企業事務職、保母、児童館臨時職員、通信制大学と歩まれ、卒業と同時に社会福祉士・精神保健福祉士の国家資格を取得。社会福祉協議会に勤務し、放課後等デイサービスで働きつつスクールソーシャルワーカー就職を目指しておられている。
 
 当事者として、罪悪感がいかに長く尾を引くものか考えさせられるお話だった。ホームページにインタビュー全文が公開されているので読んでいただきたい。

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