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 女は赤い地面を靴の底で擦っている。まだ新しい、赤いスニーカー。
 
 擦っても落ちませんよそれ、と言っても、女は擦ることをやめない。僕も紺のスニーカーの底で擦ってみた。やはり、赤い痕は落ちない。
 
「どうすんのこれ? 落とすのたいへんだよきっと」
 
「そうですね。たいへんですね。きっと」
 
 何か特殊な洗剤を使わなければ、この塗料は落ちないのかもしれない。
 
「あーあ、落とす人かわいそう」
 
「そうですね。かわいそうですね」
 
 女は、あんたがやったんでしょうが、と僕の肩を叩いた。誰かに体を触られたのは、いつ以来だろう。
 
「こんな時間にふらふらして、親は心配してるんじゃないの?」
 
「どうなんですかね」
 
 父親と母親の顔、それと冷蔵庫の中でラップに包まれている僕の食事がぼんやり浮かんだ。
 
「早く帰ったほうがいいんじゃない?」
 
 食事が消えて、カレンダーに記された「橋本さん」というメモ書きが浮んだ。きっと今日の昼前、またあの男は家に来るのだろう。あの不快な笑顔で、僕を見るのだろう。
 
「帰るって、どこに帰ればいいんですか?」
 
「家」
 
「それはもう難しいかもしれません」
 
「どうして?」
 
「家に帰ったら、橋本さんが来るんです」
 
「誰?」
 
「僕もわかりません。母親が呼んだんだと思うんですけど。たぶん、僕を学校に無理矢理連れ戻そうという狙いだと思います」
 
 住宅街の家の照明が、一つ消えた。誰かが、これから眠る。誰にも邪魔されることなく、安心してよい夢を見る。
 
「無理矢理って、腕を引っ張って、引きずって?」
 
「実際にそういうことはしませんけど、気持ちとしては、それに等しいです。家に来られるだけでも、十分な暴力です」
 
 暗くてよく見えないけれど、女の目はひどく充血しているようだ。よく眠れていないのだろうか。一つ一つのまばたきが、とても大きい。
 
「学校にも行けないし、家にも帰れないって、最悪じゃん」
 
 と女は笑ってポケットから煙草を出し、火を点けた。通学路から、白い煙が紺色の空に向かって昇っていく。今日は晴れているのだろうか、曇っているのだろうか、深夜では、それすらもよくわからない。
 
 目を地上に戻すと、遠くに小さな灯りが見えた。豆粒くらいの灯りは少しずつ近づいてきて、僕らを通り過ぎていった。通り際、自転車に乗っていた男は僕と女をいぶかしげに、じろじろと見ていた。すごい見られたね、と女は楽しそうだ。
 
 じろじろ見られても、不思議ではない。男は何もおかしくはない。きっと、おかしいのは僕らの方なのだ。こんな時間に、通学路のまんなかに突っ立って、話をしているなんて。
 
 遠ざかる男の背中を見ながら煙を口から吐くと、女は言った。
 
「ねぇ、私の家においでよ」
 

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