不登校新聞

441号 2016/9/1

1950年代に不登校と関わっていた元教員に【不登校50年】

2017年05月23日 16:07 by kito-shin


連載「不登校50年証言プロジェクト」


 坂本悦雄さんは1929年(昭和4年)生まれでいらっしゃり、現在87歳になられている。
 
 坂本さんは私の知るかぎりで、もっとも古くから登校拒否の子どもとの関わりを持っていた方で、青森県で「心の窓」という活動をやっておられた。今回のプロジェクトのために探したところ、現在は休養・保養のため、青森県八戸市から娘さんご夫妻が暮らされている栃木県小山市ですごされていることなどを顧問先の「八戸あおば高等学院」から教えていただいた。
 さっそく連絡をとってみると、快く取材に応じてくださるとの返事。小山市で「小山フリースクールおるた」をやっている稲葉裕一朗さんとともに7月3日、奥様も同席でインタビューをさせてもらった。
 

1953年ごろ 青森の山間部で

 
 坂本さんがはじめて会った不登校の子どもは、教員として坂本さんが赴任した青森県の山奥の中学校で出会ったAくんだった。1953年ごろのことで、Aくんは小学校4年生から不登校だった。坂本さんがAくんの家に会いに行ったところ、Aくんはマキ割りが抜群にうまいことを知った。

 坂本さんはAくんと信頼関係を築き、学校のマキ割りを頼んだという。するとAくんは喜んで早朝から学校に来てマキ割りをし、ほかの生徒が登校する前には家に帰るということを続け、しだいに教室にも入るようになったそうだ。Aくんは中学を卒業後、左官屋さんで働き、のちに社長や市議会議員になった。坂本さん自身はAくんに「学校へ来い」とは言わなかったそうだ。それが不思議だったため理由を尋ねると、坂本さん自身が小学校入学直後から不登校を経験されていたことがわかった。不登校とは言っても「一人では登校できない」ため、祖母と同伴登校が約2年続いたとのことで、欠席にはなっていなかったそうである。祖母は、坂本さんが学校にいるあいだは学校の廊下でずっと針仕事をされていた、という話が胸に残った。
 
 坂本さんは、その後、高校教員、県教育庁職員、高校校長、社会教育センターなど教育畑を歩いてこられたが、ずっと一貫して、不登校の子どもの成長支援に関わってこられた。なかでも自宅で始められた「心の窓」は四半世紀を超えた今も八戸に戻れば人が集まってくる、坂本夫妻に米や野菜が届く日々とのこと。私流に言えば、居場所、学び場、相談の場として、いつも毎日開かれ、不登校の子どもやその親が集まっていたところである。それには奥様の力もとても大きかった。
 
 お話を聞くと、子どもや親への優しいまなざしと温かい心に満ちた関わり方でやってこられたことが伝わって至福の時間であった。(奥地圭子)
 

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