不登校新聞

481号 2018/5/1

常野雄次郎さんに聞く【不登校50年/公開】

2018年04月26日 10:55 by kito-shin



連載「不登校50年証言プロジェクト」

 常野雄次郎さんは1977年生まれ、小学校4年生で学校に行かなくなって東京シューレに通ったことがあり、『学校に行かない僕から学校に行かない君へ』(東京シューレの子どもたち編/教育史料出版会/91年)にも経験談を寄せている。99年には、本紙で「社会の中の登校拒否」という連載をしていただいたこともある(21号~31号)。そして、その原稿がベースとなって、2005年、貴戸理恵さんとの共著で『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』を出される。そこで常野さんは「明るい登校拒否の物語」はとてつもなく嘘っぽいとして、ハッピーエンドで終わる登校拒否の言説や、学校を選択するという考え方を徹底的に批判した。

 だが、それは「炎上」してしまい、その批判がきちんと受けとめられ、議論になることはなかった。本紙論説委員でもある小沢牧子さんは、常野さんの問題提起が「不登校問題の議論の真ん中に来ることはなかった」「可能性はあそこだけだった」と話しておられた(本プロジェクト#04)。

 その責任は私にもある。常野さんは当時、本紙の読者メーリングリストで、紙面で議論に応じてほしいと呼びかけてくれていた。それにちゃんと応えることが、当時の私にはできなかった。いま思えば、それは私が編集長を辞めたことの理由のひとつにもなったように思う。この問題提起には、ちゃんと応え、考えなければならない。その後、私は自著で常野さんの問題提起に応答したのだが、それは09年のことだった。

 昨年夏、本プロジェクトで、貴戸理恵さん、山田潤さん(本紙創刊時の理事のひとり)とともに、常野さんへインタビューさせていただいた。今回はたんに常野さんの意見を聴くだけではなく、当時、きちんと議論できなかったという反省を踏まえて、自分の疑問や批判をぶつけて、対話したいという思いが強かった。また、勝手ながら、このインタビューを通じて、常野さんと、不登校運動に関わってきた人たちとが対話して考え合っていく機会につながればとも願っていた。

 しかし、それはかなわなかった。

 記事を公開したのが3月22日、それからまもない3月30日、常野さんは急逝されてしまった。肝不全から多臓器不全になったとのことだった。もっと早くに対話の機会が持てていれば、こういう事態は招かずに済んだかもしれないと思えてならず、慚愧の念に堪えない。

 常野さんは、インタビューの最後で、こう語っておられた。

 「ローザ・パークスが白人と黒人が分離されたバスで白人席から移動しろと言われたとき、頑迷に座り続けて、逮捕されて、それからバスボイコット運動が始まって、ついに分離政策を変える成果を勝ちとったんです。でも、ローザ・パークスが白人席に座った瞬間に、その可能性が見えていたかというと、そんなことはないと思います。なぜなら、ローザ・パークス以前にも、同じようなことをしていた人はいるわけです。ボコボコにされて逮捕されて、歴史に名を残してない人が無数にいる。革命というのは、可能そうだからやるのではなくて、不可能にしか思えないことを可能にするための条件をつくりだすために闘っていくということです。それは5000億年後かもしれないけど、学校のない社会を目指す。社会そのもののあり方を根本的に変えていくことを目指す。私は、そう主張したいです」。

 直接の対話はできなくなってしまったが、さまざまな方と忌憚なく意見を交わし、議論を深めていきたい。ご冥福をお祈りしつつ。合掌。(本プロジェクト統括)

「不登校50年」#36 常野雄次郎さん
http://futoko50.sblo.jp/article/182761449.html

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