今回のインタビューは、教育や子育ての本を多数執筆し、講演活動も行っている、教育ジャーナリストの青木悦さん。子ども時代やジャーナリストになるきっかけ、いまの子育ての状況などについて、お話をうかがった。
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――青木さんはどんな子ども時代をすごされましたか?
家庭はすごく暗かったです。父は酔うと母に暴力をふるい、止めに入った私もいっしょに殴られました。ただ、学校はすごく楽しくて救われました。私は学校がなければ、つぶれていたかもしれないですね。
故郷の高知には18歳までいました。小中高と楽しかったんですが、それでも、家庭のつらさを学校にまで引きずりましたね。
母はすごく世間体を気にする人だったので、暴力を受けていることは学校では絶対に言えませんでした。
友だちの前ではなにもなかった顔をしているんですが、すると自分が嘘をついているような気持ちになる。「私は学校があるから生きていける」というくらい楽しい反面、嘘をついているというストレスもありました。両方のあいだで自分を責めて苦しかったですね。
父は幼いときに両親を亡くして、15歳から31歳までずっと軍隊にいました。成長期に軍隊にいたから、戦後、人付き合いがうまくいかず苦労したようです。
殴ることでしか表現することができず、家族に暴力をふるっていたんだと思います。今ではそう思えますが、もちろん、当時は恐ろしくて仕方がなかったです。
高校卒業後、とにかく家を出たかったので、大学に入学して東京に出ようと思いました。だけど、家族のことがいつも頭から離れず、大学に入っても「遊学」なんて感じにはとてもなれなかったですね。
家族をなんとかするために東京でがんばろう、という気持ちでした。
――ジャーナリストになられるきっかけは?
大学を卒業することになったときに「朝日中学生ウィークリィー」が創刊され、求人募集していたんです。
大学では文学部だったこともあり、書いて食べる仕事をしたいと思っていましたから、試験を受けて新聞記者になりました。取材で中学校の現場をまわり始めたのが、教育にたずさわるきっかけです。
ひさしぶりに見た学校は、私の知っている学校とは大きくちがっていました。私が子どものころは、先生も生徒に対して管理的ではなかったし、服装検査やあいさつ運動もなかった。
絶対的に生徒が主役でした。私の原点である、戦後一時期の自由な学校教育から比べると、管理的で、とても違和感がありました。
中学生ウィークリーは1年半くらいで退職しました。そのころは会社に組合がなく、仲間と組合運動をはじめたら、女の私にだけ配置転換がきてしまったからです。このときに女性の問題もいやと言うほど思いしらされました。
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