「元始女性は太陽であった」という言葉で名高い平塚らいてう(1886年~1971年)。女性運動の先駆者であり、今なお女性史に輝きを放つ平塚らいてうの足跡をとどめ、女性の社会的地位の向上、恒久平和の実現に寄与しようと、2001年、NPO法人平塚らいてうの会が創設された。
らいてうの会は、らいてうに関する講座の開催、記念品の普及、ニュース発行、「らいてうの家」の創設、運営などの活動を行なっている。今回は平塚らいてうの会会長の米田佐代子さんにお話をうかがった。米田さんは共働きで、自身のお子さんが小学校に入学した際、学校と学童保育とのあいだにズレを感じ、それを機に平塚らいてうの子育てに関心をもつことになった。
「らいてうと言えば、雲の上の存在のように感じていたんですが、実際のらいてうは内向的で、講演など人前で話すことも苦手で、子育てにはたいへん悩んだそうです。そういう人間・らいてうに惹かれたんです」。
米田さんのお話によると、らいてうは28歳のとき、芸術家・奥村博史と共同生活を始める。その後、らいてうは妊娠する。家父長制度のもと婚姻手続きを踏まず共同生活をはじめ、奥村にも「子どもは要らない」と言ってきたらいてうは思わぬ妊娠に悩んだ。当時の明治政府が、すべての妊娠中絶を禁じていたこともある。らいてうは悩んだ末、望まぬ妊娠であれば産まないが「奥村を愛した結果なのだから受けいれよう」と出産を決意する。そして妊娠中から出産、さらには幼児期の子育てにかけて、「なるほど、命とはこんなにも愛おしいのか」と、子どもに対する価値観が変わった。
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