今号の記者コラムで紹介されたロックバンド「ザ・ブルーハーツ」の元ドラマー・梶原徹也さんのインタビュー記事を掲載します。この記事は、2008年2月15日(236号)に『Fonte』に掲載されたものです。
――不登校の経験があるとうかがいましたが?
高校2年生のとき、1年くらい学校に行ったり行かなかったりをくり返していて。その間のほとんどを家で過ごしてたんだ。地元でも有名な進学校に通っていた当時の僕は、学級委員長などをすぐ引き受けてしまうような優等生タイプでね。ただ、器用なわけじゃないから、一つこなすのに時間がかかってしまうことも多くて。そのうち、勉強にもついていけなくなって何事も完璧にこなそうとする自分と、学校に行けない自分とのあいだの葛藤がしだいに大きくなってきてしまったんだよね。それで、体調も崩してしまって「もうダメだー」と、学校に行くことを投げ出してしまったんだ。
――周囲の反応は?
父親は銀行員をしていて、「まじめにコツコツが人生の美徳」が信条だった人でね。しょっちゅう「学校に行かないなんて、人間のクズだー」って怒鳴られてたよ(笑)。
布団のなかはロンドン!
中学1~2年生のときに「Rock」に出会って、強烈にビートルズに憧れたね。それから高校2年生で行かなくなったころには、「俺はプロのドラマーになる」って思い込んで、重ねた座布団をひたすら叩いてた。学校に行かずに家にひきこもって昼夜逆転の生活。やっと起きてきたと思ったら、夜中にメトロノーム鳴らして座布団をドンドン叩くわけでしょ。すると親父がドガーンと部屋に入ってきて、「おまえなんか人間のクズだー」と、また怒られるわけだ。
親としては「こいつは将来、どうするんだ」って本気で心配だったんだと思う。でも、本人としてはひたすら前向きで、布団かぶってパンクを聴きながら「いま、俺の布団とロンドンはつながってるぜー」って、1人で盛り上がってたなぁ(笑)。
――音楽があったから自分を肯定できたと?
それも紙一重なのかな。「不登校」という言葉もなかった当時、学校に行かない僕はすべてを否定されていたから。そのなかで、ロックは自分の前に垂れていた「一本の糸」のようなもので、選択肢が少ないというより、1つしかなかったからこそ必死でしがみついてたんだ。その意味では、ポジティブとも言えるけど、逃げていたとも言えなくないんだ。
――その後、「ザ・ブルーハーツ」としてデビューされたわけですが。
東京に出てきてからもドラムばかり叩いていて、そのうち東京のライブハウスで演奏するようになって、「プロじゃなくても、こんな生活ならいいかな」って思い始めていたんだ。そのとき、音楽のこと以外はどうしようもない奴らだけど、音楽と真剣に向き合っていたあのメンバーと出会って、僕の人生が少しずつ動き始めたんだ。
ただ、デビュー当時はとにかく忙しくて忙しくて。「社会のはじかれ者」だった自分たちがどれだけ社会に受けいれられているかなんて、全然わからなかったというのが正直なところ。もちろん、メディアを通じてCDが何枚売れたとか聞くとうれしいんだけれど、その実感がなくて。だから、ライブのように多くのファンと直接向き合う瞬間はすごく楽しかったし、自分たちの音楽をぶつけられるライブを本当に大切にしていたのが「ザ・ブルーハーツ」っていうバンドだったんじゃないかな。
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