
連載「不登校50年証言プロジェクト」
「不登校」は、その名前に表れているように「登校」が軸になっている言葉である。経済的理由や病気による長期欠席とはわけて、学校へは行くべきと認識しているが、主として心理的、精神的、社会的に登校しない、または登校できない状態を指して使われてきた。
戦後の新教育制度が始まったのは1947年だが、そのころから不登校は存在したと思われ、1950年前半では、学校・相談機関・医療機関がそういった子どもを認識し始めた、それは親が相談に訪れた。つまり親の意識にものぼり始めた、ということにほかならない。
不登校の問題とは、学校と距離をとっている子どもについて、これまでの長期欠席とはちがったかたちの休みをどう捉えるか、そしてどう関わるか、の問題であった。今日、日本社会は、不登校に出会って60数年が経ち、不登校の子どもの数は毎年小中学生だけでも10万人~12万人、高校生も入れると約20万人存在している。不登校に出会ってきて、認知もされるようになってきたが、初期とそれに続く時代、人々は不登校をどう捉えていいかわからなかった。さまざまな見方がされ、分析、研究がされ、対応されたのが、不登校の歴史なのである。呼称だけでも「学校恐怖症」「登校拒否症」「学校嫌い」「登校拒否」「不登校」と公的に使用された言葉が変遷しているのも、そのあらわれである。
そして、注意いただきたいのは、どの言葉も「学校に行く」ということが前提で、行ってない、通っていないことを指す否定的なニュアンスを持つ言葉だという点である。
この言葉にも表れているように、「不登校」は学校の存在と深く関係している。いやもう少し正確に言うなら、図書館、美術館などがそうであるように行かない人がいるからといって何の問題にもならないが、「学校」は「登校すべきところ」とされていたこと、人々の意識のなかにも「学校へ行ってあたり前」「ふつうは行く」という考えがあり、本人は行きたくない、行こうにも行かれないという状況があるにもかかわらず「行かないのは困る」という周囲の環境があるなかで「学校」が存在した、と言う点を踏まえて考えねばならない。
義務教育の誤解
学校制度上、戦前と戦後の大きなちがいは、戦前は小学校が子ども本人の義務教育であり、天皇の赤子として、国家主義教育を受けたが、戦後は新憲法、教育基本法のもと、子ども(すべて国民)は教育を受ける権利を持ち、それを行政と保護者が保障するという民主主義教育に変わったことであろう。しかし、長いあいだ、多くの日本人は小中学校の義務教育は、子どもの義務を指す、と誤解していた点も含め、日本社会は「不登校」に対して、寛容ではなかった。いや、戦後しばらくは、敗戦の影響から長欠児童が多かったことも影響して、登校したくない者を無理に登校させようという風潮も強くなく、寛容な時代もあったが、高度経済成長を遂げつつあった日本では、社会構造が変わり、高校、大学進学率が上昇・高学歴化し、学校の重圧が増していく。そのなかで不登校が社会問題になっていくわけで、文部省の「学校嫌い」調査開始も、そのことを表している。そして、70年代、進学のための学力競争が激しくなり、効率をあげるための管理教育が広がり、ストレス化した学校現場では校内暴力やいじめ、登校拒否が増えていったのだった。
対応も70年代、80年代は一般的には「首に縄をつけても登校させよ」であった。これは幾多の悲劇を生んだ。「どうしても登校しない」のなら「なおす」と捉えられることが多く、「病気」とされた場合は精神科入院、「怠け」と捉えられた場合は矯正施設、「甘え」と捉えられれば山村留学や集団訓練施設に入れられた。
80年代半ばから「なおす」のではなく本人の気持ち、意思の尊重から学校復帰にこだわらず対応をしていく親の会や学校外の居場所、学び場が誕生し、流れを変えていくことに一定の影響があった。1992年、国は「不登校は誰にでも起こりえる」と認識転換し、民間施設の出席扱いや通学定期の適用を認める。90年代は学校外対応の進んだ時代であり、公的にも適応指導教室やスクールカウンセラー設置などが整えられたが、基本は学校復帰が前提であった。2001年、フリースクール全国ネットが誕生し、不登校数の高止まり状態が変わらぬなか、世界的な流れも受けて、学校以外で育つ在り方も国として検討され、子どもの学ぶ権利の充足のために法案も検討されてきている段階と言える。
証言を通して
調査開始時より50年、ひところより対応はやや寛容になってきているが、問題行動視ではなく、子ども、当事者の側に立って、多様な学び・育ちのあり方ができる社会になっていくことが求められていると感じる。その時、その時の証言を通して不登校が提起したことは何なのか考えていっていただくと幸いである。
プロジェクトチーム委員 奥地圭子
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