「登校拒否・不登校を考える夏の全国大会2013」の大会で行なわれた「親シンポジウム~ありのままで~」では不登校の子を持つ4人の親が登場。今号と次号に分けて講演抄録を掲載する。
私には子どもが2人いまして、娘が中学校1年生のとき、息子が小学校4年生のときに不登校をしています。
当時はまだ「登校拒否」と言われていましたが、ほんとうに世間の眼は冷たかったです。周囲も先生たちの考えも「いかに学校へ戻すか」だけ。娘は、学校に行けない理由とは別に、その冷たい視線のなかで動けなくなったんだと思います。3カ月間、ひきこもりが続き、体重は10㎏減り、髪の毛はごそっと抜けました。
そのころ私は娘のことで学校とやり取りをくり返していましたが、学校の態度に腹を立て娘に「あんな学校、もう行かなくていい」と感情的に言い放ったこともあります。そう言っても、というか今から考えると、そう言ったからこそ娘は一人で抱え込むしかありませんでした。というのも「学校に行かなくていい」というのは私の思いです。娘の「行きたくない気持ち」に共感したわけではない。娘から見れば、むしろ自分の気持ちを無視され、つらい気持ちは、自分一人で抱え込むしかなくなってしまった。おかあさんが「もうそんなことはいい」と言って聞かないわけですからね。
そんな親でしたが、ある日、娘の背中を見ていたら「この子、死ぬ気だな」って感じたんです。私が察したことになんとなく娘も気がついたんだと思い
ます。言葉にするのは難しいですが、なにかが、おたがいに伝わりあい、それからは徐々に娘は気持ちが楽になっていったように見えました。
バイトの面接で
娘が中学3年生のとき、私が今後の進路を聞くと、娘は「そのうちアルバイトする」と。言った通り、のちに地元のパン屋さんで働き始めました。娘は現在、 30代半ば、洋菓子職人として働いています。洋菓子職人の道を志したのは、パン屋を辞めたあとに始めたケーキ屋さんでの面接でした。娘の履歴書には、中卒 以降、ほとんど何も書かれていません。それを見たケーキ屋さんのオーナーが「キミの履歴はシンプルでいいね」と(笑)。そんなふうに肯定的に受けとめてく れたのがうれしくて娘はがんばり、その姿を見て、ほかの従業員も眼をかけてくれたんじゃないかと思います。
息子の場合は、お姉ちゃんの
ことを見ていたので自然と不登校に入っていきました。息子はスポーツ好きで野球ができる通信制高校に行き、3年間で卒業ができるところをわざと4年在籍し
て野球をやっていました(笑)。『プロ野球選手になりたい』なんて言ってましたが、すぐに現実を知って、スポーツトレーナーを目指して勉強を始めました。
その過程で理学療法士を目指すことにし、現在はアルバイトを4つ掛け持ちしながら資格取得に取り組んでいます。学校的な勉強とは縁がなかった息子が、大学
卒業後、専門学校の夜間部に在籍しています。
家庭訪問から神経症気味に
骨組みだけ話すと、順調なようですが、いろんなことがありました。中学校時代、フリースクール「りんごの木」に元気に通う息子に対して、先生たちはしきり
に学校を進めていました。息子は私の知らないところで家庭訪問をくりかえす先生たちとの関係で悩み、神経症気味になって、あまり動けなくなったこともあり
ました。
こうした娘や息子たちのことで、いつも支えになったのが、フリースクール「りんごの木」に集まるお母さん方と話すことです。
みんなで集まって、おしゃべりをして、共有して、重荷をおろしあう。こういう集まりのなかで、出会った仲間とともにいろんな活動をつくってきました。その
なかでどうしても家庭で育つことが困難な子どものための自立援助ホームが生まれました。「やっぱり必要だよね」という自分たちの思いをかたちにしてきたか
らだと思います。
いまもう一つ、必要だと思っていることがあります。以前、子どもから一度だけ泣いて頼まれたのが「学校から籍を抜いて
くれ」ということでした。自分がまったく通わない中学校と関係があること、関係があるだけでなく責めてもくること、自分が通っているフリースクールが軽ん
じられていること、いろんな思いがあったと思います。でも学校から籍を抜くことは現在の制度ではできません。
多様な学び保障法を実現する会(旧「仮称オルタナティブ教育法」を実現する会)では、学校教育法のほかにもう一つの法律をつくろうと動いています。
その法律が完璧なものになるかはわかりませんが、とにかく学校教育法一本じゃだめではないか、もっと考え直す必要があるし、議論が必要なのではないかと
思っています。なにより法律によって、国のための学校、国づくりのための教育ではなくて、一人ひとりがなによりも大事なんだということが伝わるような法律
づくりに参加していきたいと思っています。(増田良枝・埼玉県)
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