人格障害は関係の障害
前号に引き続き、精神科医・高岡健さんに「人格障害」を中心にお話をうかがった。
――激しい攻撃や自傷は関係を求める気持ちの裏返しなんですね。
そのとき、ただ訴えるだけではなく、自分の背景や理由を見つけようとする。そうしないと、自分が何者かわからない。そういう傾向が強くなってきた。それは、ありふれた言葉でいえば自分さがしです。もっと狭めて言えばトラウマ探し。しかし、そこには他者がない、関係がないんですね。自分にしか向かっていない。
関係を求めながらも、他者を自分とちがう者として関係を結ぶことができない。しかし、関係なし、他者なしでは生きられない。そこを無理につなげようとすると、境界例的な表現になってしまう。そういうことが起きているように思います。
――診断名は功罪ありますよね。
通常だったら、たとえばガンの検査を受けてガンでなかったら安心しますよね。ところが、たとえば発達障害の場合、診断名がつかないと、逆にがっくりきてしまう。診断名が確定したほうが安心するというヘンな現象が起きています。同じことは人格障害や摂食障害でもあります。たしかに、診断名によって、自分とは何かの一端が明らかになることはあるでしょう。しかし、それはあくまで一端であって、すべてを説明できるわけではありません。また逆に、周囲は診断名がつくことを忌避していて、本人とのあいだにズレを生んでいることも多いです。
そもそも 人格障害って?
――人格障害という名前に、まずびっくりしてしまうんですが。
そもそも人格とは何かということですが、気質・性格・人格を便宜上わけてみると、気質というのは持って生まれたものですね。「おとなしい」とか「活発」とか。性格というのは、気質の具体的な生活場面での現れ方です。「行動的」「勤勉」「ずぼら」など。それがくりかえされてくると人格になると、昔の精神医学者が言っています。
くりかえされるということは、そこに人間関係が入るということです。人格という概念には関係が入っている。自分から他者への関わり方と、他者から自分への関わり方との両方がある。ですから、人格が障害されているということは、実は関係が障害されているわけです。その関係の障害を表現する方法があれば、「人格障害」という言い方は必要なくなってくる。人格障害という概念自体を解体していくことが必要です。しかし、うまい表現がなかなか見つからないので、私は暫定的に、独立/依存とか、能動的/受動的とか、そういう軸で考えています。たとえば演技性人格障害は、能動依存人格と言えます。そういう生き方でうまくいっていれば、何も臨床場面に登場する必要はない(くわしくは高岡健『人格障害論の虚像』を参照)。
問題になるのは、境界例と言われる状態です。1日に何十回も電話をかけてくるとか、相手を理想化して持ち上げていたかと思ったら、ちょっとしたことで急に手のひらを返したようにこき下ろし始めたり……。そこでリストカットやオーバードーズが出てきます。もっとひどくなると、本格的な自殺未遂。あるいは数時間から数日間の単位で、一時的に幻覚が出てくる。これを小精神病と言います。このときには、医療が必要です。
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