「不登校という言葉は最悪だ」。そう語るのはPN喜久井ヤシンさん。自身の経験を「不登校」という言葉で語りたくないという喜久井さんに、思いを書いていただいた。
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私は『不登校新聞』のど真ん中で訴えよう、「不登校」なんて言葉は最悪だ、と。
まず「不」とは何事か。ガッコウに行かないこと、行けないことについて何十年も議論しているというのに、いまだに「登校の否定」によってしか語れないなんてどうかしている。もしも日本語で女性のことを「不男性」、LGBTを「不異性愛」、在日コリアンを「不日本人」などと呼んでいたら差別だろう。なのになぜ「不登校」はありなのか。そして便宜上必要だったとはいえ、「不登校」という言葉が、なぜ法律にも位置づけられてしまったのか。
この言葉の最大の欠点は、何十年と続いている社会問題が、子ども個人のせいであるかのように語られてしまうことだ。「学校恐怖症」や「登校拒否」などとも言われてきたが、この問題は社会全体の病理であり、個人の「不登校」が語られたところで改善していかない。「君が不登校になった原因は?」なんて愚問が子どもに向かってあと百年くり返されても、社会全体の「不登校」問題は変わらない。
「聾」のように「癩」のように「白痴」のように、「不登校」という語にこびりついた被差別の血の痕が見えないだろうか。私は旧世紀の差別語のように、この言葉を歴史上の遺物へと追いやりたい。
ジェンダーでは多様な言葉が
それとも一度、世に普及した言葉は変えようのない、当事者たちの選びようのないものだと信じているのだろうか? だとしたらまちがいだ。言葉はそんなものではない。
読者コメント
akatsuki
一般公開 よくぞ言って下さいました!「不登校は学校でおきている、学校...
shhsyyseawellsakuranejp
一般公開 全く同感です。見事に「不登校」とは「社会問題であり、問題視...