不登校新聞

465号 2017/9/1

文科省の認識転換に携わった永井順國さん【不登校50年/公開】

2017年09月26日 17:14 by shiko
2017年09月26日 17:14 by shiko

連載「不登校50年証言プロジェクト」

 永井順國(ながい・よりくに)さんは、わが国の不登校の歴史を語る際に欠かせない一人だと思う。それは不登校を問題行動、あるいは心の病とみなすことから生じる誤解、偏見、差別を変え、一人ひとりの子どもの学びや成長をどう支えるかという視点から長い間、教育畑で活動され、国に影響を与え、国の変化をもたらした一人だと評価するからである。

文科省の認識転換に

 1992年まで国は不登校は「子どもの性格が悪い」「親の育て方に問題がある」という捉え方をしていた。そして学校復帰一辺倒の政策をしてきた。それに対して、1992年、「誰にでも起こり得る登校拒否」と認識を転換し、フリースクール等民間施設への出席日数を学校の出席日数にカウントできる道をひらくなど、幅を広げる対応になったのを、読者の皆さんはご記憶だろうか。

 そして、登校拒否急増の1980年代の状況を受けて「学校不適応対策調査研究協力者会議」が1989年に発足し、その報告書の一項目に「属性的にはとくに問題はない子どもたち」として認識転換が述べられたのだが、その最終報告書をまとめるワーキンググループの一人が永井さんだった。そして、この会議に山下英三郎さんと奥地がヒアリングに呼ばれているが、「学校復帰ばかりでなく、こんな活動もあるから話を聞いたらどうか」と提案くださったのも永井さんだと当時うかがった。

 最終報告書がまとめられようというころ、瀬戸内海の小佐木島という島にあった矯正施設「風の子学園」で子ども2人を園長が死亡させる事件が起き、民間団体に向けられる眼差しが厳しくなる兆しもあった。しかし結果的にはガイドライン作成とともに、フリースクールを認める道が開かれたのだった。翌年にはフリースクールに通う子への通学定期券適用につながった。

取材活動を経て

 永井さんは戦前生まれ、じつは私と同じく4歳で終戦、育った地も広島県だった。永井さんは忠海高校出身だが、忠海には私は親戚があり、三原で暮らしていた私は、よく遊びや海水浴に行っていたが、もちろん知り合う由もない。永井さんはその後、早稲田大学に進学、ジャーナリストになられ、読売新聞の教育関係で活躍されていく。オランダなど海外にもよく行かれ、取材は幅広かった。私は1980年代、良心的な補習塾関係者でつくっていた「わかる子をふやす会」で何回か出会っている。国の会議のメンバーに抜擢されたのもジャーナリストの仕事が評価されたのだと思う。

 読売新聞を退職後は、1998年に女子美術大教職課程教授に就き10年間、2007年から政策研究大学院大学に客員教授として10年間つとめられ、今年3月で退任された。その間、中教審その他、国の関係の委員会やNPO関係の委員などさまざな活動をされてこられた。
 ごく最近で大きい仕事は「フリースクール等に関する検討会議」の座長であろう。国の動きが学校以外で学んでいる子たちも視野に入れて成長支援を考える方向にシフトし始め、2014年、国の「文部科学省全国フリースクール等フォーラム」が開かれ、永井さんが講演、翌年1月検討会議開催となった。私もメンバーに入っての2年間だった。
 インタビューでは、子どもの現状から政策や仕組みに取り組んでこられた「生の話」に時代を彷彿させられた。ぜひご一読を!(奥地圭子)

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