不登校新聞

469号 2017/11/1

世田谷区長・保坂展人さんにインタビュー【不登校50年/紹介記事】

2017年11月24日 12:28 by shiko
2017年11月24日 12:28 by shiko

 現在、東京都世田谷区長を務める保坂展人さんに、超ご多忙ななか、インタビューに応じていただいた。保坂さんのお若いころは麹町中学校内申書裁判や『学校解放新聞』を通して、その後は、ジャーナリストや国会議員の活動を通して、私たち、不登校に関わる当事者や関係者はずいぶんと励まされてきた。

 保坂さんは、仙台で内気な幼稚園時代をすごされ、親の転勤で世田谷区の幼稚園に移られるのだが、小学校は、母親が友人から聞きつけた情報によって「目指せ東大」のための小学校へ通うことになったそうだ。その後、父親が病気になったことを受け、小学校4年生から5年生にかけて「しっかりしなければ」との意識が芽生え、よく本を読むようになる。中学に入ったころは、受験戦争のまっさかり、朝4時から勉強して、睡眠不足で成績が落ち、先生に怒られるというなか、読書だけが唯一の息抜きだったそうだ。

麹町中学校内申書裁判

 その学校となぜ対立していくのかはインタビューをご覧いただきたい。ややシニカルな中学生らしい校内活動がジョークとして通じず、また「ベトナムに平和を! 市民連合」の集会に3分ほど散歩の途中で立ちよったことが大騒ぎにつながり、「一線を越えた」生徒として、授業にも、ほとんど出してもらえなかった。

 説得にくる先生と、はてしない議論をし、最後には教頭が「生徒会での発言は俺が保証する」と約束したので、チラシ配りをやめた。しかし、生徒総会で裏切られ、全校生徒の前で引きずられていくいう事態になる。それが「麹町中学校内申書裁判」につながっていくのである。

 当時の「学校」の体質がとてもよくわかる、そして、中学生には過酷な体験を聞くことができた。裁判も、本当は10代の自分にとっては苦痛だった、という話はうなずける。

 保坂さんは、麹町中学校が出した内申書により、受験したすべての高校を落ち、定時制高校に入ったのだが「それはそれでサバサバした部分があった」という。受験というベルトコンベアーからようやく降りられたからである。しかし、70年代に入り、連合赤軍事件や内ゲバ事件に失望感を覚え、学生運動みたいなものでは世の中は変わらない、と思うようになった。世の中おかしい、自分で働きながらそれを見てやろうとさまざまな仕事をされる。とりわけ一番こだわったのは「言葉」だという。働いたあと、毎日2時間、喫茶店で大学ノートに誰に頼まれたのでもなく、エッセイを書き続けたそうだ。その結果、自分なりの考えや文体も生まれた、という。ミュージシャンの喜納昌吉さんについて月刊「宝島」に100ページにもわたり書けたのも、その賜物だったのだろう。

国会議員から世田谷区長へ

 鹿川裕史くんや大河内清輝くんのいじめ自殺事件、神戸の校門圧死事件など、子どもの不幸な事件現場に飛んでいって取材し、テレビや本で語ったり、「いじめよ、とまれ!」のキャンペーンをやっているうち、社民党の土井たか子さんから立候補を要請され、国会議員になっていかれる。小さい党にいながらやれるだけのことをやって、今、世田谷区長である。「原発反対を看板にして当選するとは」と驚かれたが、今や「住みたい区」として注目度が上がっている区政である。保坂さんの歩みに学ぶことは大きい。(奥地圭子)

本文はブログにて公開予定

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