不登校新聞

534号 2020/7/15

「原因がわからなかった僕の不登校」に寄り添ってくれた母

2020年07月13日 16:17 by kito-shin

 今号より長崎県在住の中村秀治さんのコラム「ひきこもって見えてきた道」を始めます。中村さんが不登校していた当時のことや、現在の日常を執筆してもらいます。

* * *

 学校へ行くことが苦痛になったのは小学5年生のころだった。父親は厳しい性格で登校をしぶる僕を叱りつけランドセルごと外に投げ出した。

 だがその後、両親が離婚して母に引き取られると叱る人物がいなくなり、ひとまず学校は休むことができた。

 不登校の原因はわからない。「学校が楽しくないのか」「同級生となじめないのか」「先生がイヤか」「勉強が苦手か」、そう聞かれたら、すべてが当てはまりそうで、ちがうような気もする。

 ひさしぶりに登校するとケガをしているわけでもないのに長期的に休む僕の姿を同級生は奇異な目で見た。「サボり魔」とからかわれたりもしたが、いじめだと感じることはなかった。

 母は学校へ行かない僕に「行きなさい」とは言わなかった。日常会話はするが学校に関することはとくに何も言われなかった。それが僕にとって救いだった。

扉の閉まる音が

 毎朝、母が働きに出かける際に玄関の扉が「……バタン」と閉まる音を聞くたびに僕は心のなかで「今日も学校に行けなくてゴメンナサイ」と母に謝った。

 そのことは、のちのちになるまで母親本人には伝えなかった。言えばつらい思いをするのは母だとわかっていたからだ。

 中学生になっても不登校は続いた。同級生は学校へ行き勉学やスポーツにいそしみ、社会性も身につけ、人によっては将来の道を見据えてすごしている。

 一方、僕は不安な気持ちから逃げるように家のなかで漫画を読んだりゲームをしたりした。しかし楽になることはなかった。学校や将来のことへの不安はいつでも頭をよぎっていた。

 親や社会に対する罪悪感と焦燥感で押し潰されそうな毎日だった。それでも学校へ行くことはできなかった。つらい時間は長く続いた。

 20代のころに震災ボランティアで被災者と出会い、その後も長崎県内のフリースペースのスタッフや利用者と対話することによって傷ついてしんどい思いをしているのは自分だけではないのだと知った。

 社会のなかで取り残されていると感じることもあるが、不登校やひきこもりに関する居場所や支援してくれる方は外の世界にかならずいるのだ。またそういう人と対話したり関わっていくことで気持ちが穏やかになったいった。

 今でもひきこもってはいるが、当時のようなつらい気持ちは感じない。自分の生き方を肯定できるようになったからだろう。

 だいぶあとになって母親がなぜあのころ「学校へ行きなさい」と言わなかったのかを知った。それは、もっともつらい状況に僕がいたことを「わかっていたからだ」という。

 いじめなどとちがって明確な原因が、僕の不登校はわからないのだ。重要なのは不登校になった原因を探して、それを解決して登校させるということではない。

 「学校へ行くことがつらい」という当時の僕自身の心に向き合ってくれた母に今でも感謝している。(中村秀治)

【プロフィール】
(なかむら・しゅうじ)
1986年生まれ。長崎県在住。小学5年生で不登校。著書に『おーい、中村くん―ひきこもりのボランティア体験記』(生活ジャーナル)。

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