連載「不登校50年証言プロジェクト」
堂本暁子さんは、現在85歳を迎えられている。堂本さんと言えば「千葉県知事をなさっていた人」と説明すると、「ああ、あの」という反応が戻ってくる。もう少しご存じの方は、国会議員をなさっていたことや、議員以前は、TBS記者でジャーナリストだったこともご存じだろう。私は、そのTBSの記者時代に出会っている。インタビューのなかで、堂本さんはこうおっしゃっている。
「私の職歴って、おもしろくって、全部でちょうど50年。ジャーナリスト30年、国会議員12年、県知事8年なの。そして、やめてからちょうど8年経ったから、市民運動8年」。
それだけでも、なかなかの経歴で、たくさんの業績を残されているが、じつは、日本の不登校の歴史にとって、欠かせない人だと私は思っている。
堂本さんがジャーナリストだった1980年代前半、学校へ長期に行っていない子どもが、病院へ入れられたり、矯正施設へ収容されたりしていた。その子どもたちに直接、取材をされていた。ちょうどそのころ、私たちは「登校拒否を考える会」を結成し、毎月、親どうしで集っていたのだが、堂本さんは親の会に来て、取材先の現場がいかにひどかったかを語ってくださり、私たちの親の会の活動を報道してくださった。私との出会いは、まだ私が教員をやっていたころだが、わが家の登校拒否についても、とてもよく覚えておられていたので驚いた。もっとも堂本さんに言わせると「もし私が奥地さんに会わなかったら、あんなに延々と、不登校、登校拒否の子どもの取材をして、番組づくりはしなかったと思う」と語っておられた。
「延々と」というのはジャーナリスト時代だけではない。国会議員になられて、今も仕組みとして続いている「民間施設へ通う不登校の小中学生に対する通学定期券の適用」に、とても尽力いただいた。子どもたちとともに、全国から集まった署名を国会へ届けたり、この件を検討する国会の文教委員会に、子どもの傍聴をさせていただいたり、いろいろ動いてくださって、時の文部大臣・運輸大臣が合意。93年4月より、ついに実現の運びとなったのだった。
千葉県知事になってからは、NPOと行政のコラボレーションを本気になって進めていただいた。私たちに県の施設を無料で貸してくださり、あとのいっさいはNPOで行なう「公設民営」の居場所づくりの道を拓いてくださった。委託事業は2年や単年度で区切られてはいたものの、報告会やプレゼンなどをくりかえしながら、堂本さんが知事退任後も続き、11年間、行なうことができた。現在、事業は終了し、独立して民間のマンションを借り「流山シューレ」として運営できている。
インタビューでの圧巻は、80年代の不登校の子どもが病院や施設でどういう扱いを受けていたのかである。また、堂本さんのような個性、生き方がどういう生い立ちで育まれてきたのか、なぜ不登校の子どもの側に立ち得て考えられるようになったのかをくわしくお聞きした。まもなく、HP上にアップされるので、ぜひ読んでいただきたい。(奥地圭子)
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