「私、旧満州帰りの不登校なんです」と語るのは澤田和子さん(76歳)。小学校1年生~小学校4年生まで、1年間の半分近くを登校しなかったという。その背景には戦争によって旧満州から引き揚げてこざるを得なかった事情があり、現在の不登校の定義とはぴったり当てはまらない部分もある。しかし、1940年代の長期欠席者の貴重な証言としてお話をうかがった。
――戦後直後、長く学校へ通わなかったと聞きましたが、当時のお話を聞かせてください。
1941年に私は旧満州の首都・新京(現・長春)で生まれ、敗戦後の46年に日本へ引き揚げてきました。今では死語になっている「引揚者」の家族です。引揚げた先は、茨城県の大井澤村(現・守谷市)、私が4歳10カ月のころでした。
その引揚げから1年ほどがすぎて小学校へ入学しています。日本に引揚げてからの暮らしは、虚弱体質だったこともあり、家からはあまり出ず、遊びに来てくれる近所のいとこが唯一の友だちでした。
そのような状態でしたが、親も先生も「行きたいときに行けばよい」という感じで、私も遠足や行事に誘われれば出かける程度にしか登校しませんでした。
学校へ行きづらい
その後、小学校2年生ぐらいからは、だんだんと学校へ行く機会も増え、友だちも少しずつ増え始めましたが、また学校へ行きづらくなりました。学校の友だちから仲間外れにあったからです。
学校は自宅から20分ほど離れた距離にあり、私が引き揚げてきたことなどは、同級生にとって知る由もありません。なので私が標準語というか東京弁を話すことや、そのふる舞いが、まわりにとっては「ヘン」だと思ったのでしょう。私が旧満州で覚えた日本語では、母親のことを「おかあさん」と言いますが、茨城弁では「おっかー」です。「おかあさん」は「かっこつけた東京弁」であり、まわりにとっては鼻持ちならない言葉です。
私は「言葉がちがう」ことがどんな意味を持つのかわからないまま、周囲からのからかいの対象になりました。そんな毎日を重ねているうちに、今度は本格的な「不登校」になり、気がつけば吃音にもなってしまっていました。
読者コメント