内閣府の調査により学校の長期休み明けに子どもの自殺が突出して多いことが明らかになった。まもなく2学期初日を迎える。私たちには何ができるだろうか。辛淑玉さんに執筆いただいた。

 私は、いつも一人だった。友だちがほしかった。
 
 幼かったころ、渋谷区笹塚の幼稚園は、朝鮮人の子どもの入園を許さなかった。近所の子たちが幼稚園に行って、誰もいない時間が寂しかった。
 
 小学校では最初から浮いていた。集団のなかでどうすごしていいかわからなかった。家の事情で何度も転校し、そのたびにいじめの対象となった。誰も机をともにしてくれない、一人で食べる給食は本当につらかった。
 
 お金がないから、あちこちの親戚に預けられた。「うちに来られたって……」と捨てゼリフを吐かれたり、叔父たちが鰻を食べている隣の部屋でいつまでもご飯をもらえずに放置された。惨めだった。

 何度目かの転校先は朝鮮学校だった。ここでは、日本学校からの転校生ということで、一番激しく叩かれた。同級生は毎日、私がこんなに日本語を使ったと先生に報告し非難した。先生からは殴られ、「考え方が悪い」と言われ、ここでも一人だった。次に転校した中学では、今度は朝鮮学校から来た生徒だからと、特別な目で見られた。
 
 学校用語がわからず、ホームルームってなんなのか、公民ってどういうことを勉強するのか、ラジオ体操はどうやればいいのか、毎日毎日、バカ扱いする周囲の視線のなかで生きていた。もちろん塾に行くお金などない。空き瓶を集めて換金したり、消しゴムのパッケージの糊付けの内職をしたり、ヤクルト配達をしたり、公衆電話の釣り銭口や自動販売機の下に落ちているお金を拾ったり、稼げることはなんでもした。卒業式にはチョゴリで出席したが、私に話しかける人は一人もいなかった。私が一歩出ると、まるで潮が引くようにみんな離れていった。
 
 そして高校に入ったが、朝鮮人は就職できないと知って泣けてきた。大人といっしょに働くことはつらかった。よく体を触られた。エレベーターで後ろから抱きついてきたクライアント、呼び出しておいて下半身裸で出てきた代理店の部長、この仕事をやるということはわかっているな、と暗に体を求めてきたクソジジィ。あげればきりがない。そして今は、「いい韓国人も、悪い韓国人も殺せ」と叫ばれる。
 
 絶望も、死にたいと思ったことも、何百回何千回とある。でも、生きている。たとえ意味はなくても、生きることが大事なんだ。
 
 ねぇ、今度会ったらいっしょにごはんを食べよう。そして、今度はあなたの話を聞かせて。(「のりこえねっと」ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク共同代表)
 

※本記事は2015年8月15日『不登校新聞』に掲載された記事の再掲